2015年
12月
28日
月
この【213号】のタイトル。
なんだかでかい話のようだ。
けれど、これが一番素直な思い、正直な題名だ。
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世界一小さなキャロルをと計画したのは「クリスマス イヴイヴ」の昼間だった。
大学生たちがあふれるような教会であれば、12/24のイヴ礼拝後に、「さぁ、出掛けよう!」と、会員のお宅や駅前、或いは、病院の窓辺に立って、という企画もアリかも知れない。
かつて、薬大のコーラス部の学生がクリスマスになるとやって来てくれる教会で仕えさせて頂いていた。その時は、教会に戻って来て深夜までの語らいが続いた。
そして、だいたいその数日後には発熱したり、疲れも一因だろう、牡蠣にあたったりしたものだった。
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されど、われら旭東教会の現在の平均年齢○7歳?らしい。
たぶん誤差があっても2,3歳。
とてもではないけれど、そんな大学生たちとのキャロリングのようなことは無茶だ。
というわけで、12/23の休日に、ミニキャロルを行うことになった。
旭東教会恒例の行事、ということではなく、わたしが発起人となり、オルガニストの光代さんが取りまとめの労を担って下さり、おぼろげなイメージを抱きながら呼び掛けをした。
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さて、一体どれ程の参加者がという一抹の不安を感じながらも、もともと、わたしは前任地でひとりきりで、しかも、公言せずにミニキャロルを行っていた人間だ。
だから、参加人数は計画当初から問題ではなかった。
2014年3月、日本キリスト教団の教師の友編集部から依頼を受けて、クリスマスのメッセージを書くことになった。その際投稿したものに、こんなことをわたしは記していた。
前任地の北海道の最北の町にある教会でのことである。
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ひとりで稚内市立病院に入院中の方たちをお訪ねしました。
そこは日本で一番北にある病院です。私が暮らす稚内の冬は雪国というよりも、氷の中にあるという感じに近いかも知れません。
その日も凍て付く道の日でした。
市立病院にはお二人の教会員の方が入院していましたので、私は出来たての燭火礼拝のプログラムと讃美歌をもって出かけました。
「せめて、〈きよしこのよる〉だけでも一緒に歌うぞ。ひとりキャロリングだ」と思いながらです。ご病気のため教会でクリスマスイブのお祝いすることができない方のことをそのままにして、夜の燭火礼拝を守る気持ちになれなかったのです。
おそらくその思いは、若き日の私自身の闘病生活とつながっています。
以上、わたしの書いたものながら、引用終わり。
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さて、そんなわたしの発案によって、旭東教会のミニキャロルの準備はゆっくりと進んだ。
参加者は前日までに10名を数えることになった。「先生、わたしも連れて行ってもらえますか?」という声も飛び込んできたりもした。
嬉しかった。
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「世界一小さなキャロルを!」と計画したその日。 参加者はそれぞれの思いを胸の奥底にしまっていた。
いや、秘めていたと思う。
それぞれに人生の重荷があり、また、神さまに託されていることがある。
でも、それは簡単に説明も出来ないし、聴いてもらうことも難しい。
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市内のキリスト教主義の施設で過ごして居られる信治兄のお部屋を午後に訪問。
信治兄の妻・安佐子姉は、先のクリスマス愛餐会・祝会でストーリーテリングを披露して下さった幹子姉に「ぜひ主人にも、あの語りを」と願われた。
それは突然の申し出だった。
けれど、もちろん、幹子さんも快くお引き受けくださった。
とは言え、その道20年近い幹子さん(市内の公立幼稚園や小学校で、ボランティアティーチャーとしての歩みを重ねておられる)にとっても、これは新たなチャレンジの場となったようだ。
12/27(日)に幹子さんとお話をして知ったけれど、やはり、事実上会話が成り立たない方への語りは全く想定されたことがない新しい経験だったとのこと。
そうだ、幹子さんは、間もなく旭東教会へ転入予定の姉だ。
重ね重ね嬉しい。
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奥さまの安佐子姉でも意思疎通が難しい状況にある信治兄。
その枕元に幹子さんは近づいた。
グリム童話の短編・『おいしおかゆ』の語りが枕元で始まった。
信治さん。
娘さんの誉(ほまれ)さんとそっくりと聴く円(つぶ)らな瞳でじーっと見つめ、耳を大きくして聴き入って居られた。耳は何㎜か大きくなり、瞳は何かをさがして集中していた。
一部始終を、安佐子姉はひざまずいて見守った。
それは祈る人の姿。安佐子さんもまた集中された目を大きく見開いてそこに居られた。
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亮子(りょうこ)姉のことも記そう。
午前は瀬戸内市・邑久(おく)にお住まいの91歳になる迪子(みちこ)姉宅を訪ね、午後はキリスト教主義教会と施設を運営する博愛会にご一緒した教会の仲間に、亮子さんが居られた。
亮子さん。
昨年のクリスマスに洗礼を受けた方。ご両親やおじいちゃまが熱心なキリスト者。わたしと同年代の方だ。
わたしはこの日、始める前にも、終わる時にも、いったん立ち止まって何かしらの分かち合いをすることを心掛けていた。
全てのプログラムに参加した方は居られないので、それぞれの経験を分かち合いたかった。
12/28の朝目にしたとある読みものに、「経験の共有 それが愛」と、キリスト教とは全く関係のない文脈の中で語られていたことが心に響いた。本当にそう思う。
深く共感する言葉だ。
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そんなわたしだから、ミニキャロリングの解散前、病院のロビーで輪になった時、わたしは亮子さんに訊ねた。
「亮子さんは、今日のキャロルはどうでしたか」と。
その声掛けに対して彼女は、わたしからすると思い掛けない言葉を、しかし彼女らしく、だいぶ早口で語られた。
「はい、わたしは今日、父の讃美歌を持参していました。きっと、(2012年11月20日召天の)父も喜んでくれると思って」と、涙声を詰まらせた。
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散会後、わたしはふたりの姉妹を家の前まで車でお送りした。
何もそのことを恩着せがましく記すのではない。ごく自然な流れのことだ。
実は、この送りがなければ、出会えなかったかも知れない方が、クリスマスのポスターを見るために、旭東教会の掲示板前に軽自動車を停め、小走りで降り立つところに遭遇しなかったのだ。
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〈Fさん〉という方だとは、もちろんそんな場ではお聴きも出来なかった。
でも、〈Fさん〉だとその後知ることになるのだ。
「わたし教会の者です。噛み付きませんから、ぜひ、気軽にいらして下さい」とクリスマスの案内や週報をお渡しした。
イヴの夜にお目に掛かれたらと祈りつつ。
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27時間後。
Fさんは旭東教会のクリスマスイヴ燭火さんび礼拝にお出でになっていた。新来者カードに記名も下さった。そしてティーパーティーでもご一緒した。
Fさんのことが、その後もずっと気になった。
ジュニアサークルのリーダー会議がその週の土曜(12/26)の午後に開かれたのだが、わたしは、何故かFさんの新来者カードをその会議に持っていた。
すると、光代さんが、「先生、Fさんは・・・・・・」と、ティーパーティーの席でわたしがご一緒していなかった時の会話の一部を紹介してくれた。
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12/27(日)。
わたしたちは、旭東教会の一年を締めくくる歳晩礼拝を捧げた。
不思議と言う言葉はキリスト教会にはない、と教えて頂いたことがある。一度聞いて頭を離れない。
わたしもそう思う。
礼拝の最初は気がつかなかったのだが、ふと見た方向にFさんが居られた。
クリスマスイヴの時と同じ、一番後ろの右端に居られるではないか。
神に感謝した。
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点が点でなくなり、線となる。
それは、わが人生55年が経ち、最近つくづくそう思うことが多くなってきた。長生きするともっとそのような経験が出来るとしたらたのしみになる。
つい最近、地元の電器屋さんのHさんとお話しすることがあった。
教会の小さな電気工事をお願いしたいと思って出会った電器屋さんだ。西大寺らしく、店の前に東芝の乾電池の自動販売機を今も据えているあのお店だ。
彼は旭東教会の最年少役員の亮さんと同級生だと知った。幼い頃、ボーイスカウトで旭東教会にもおいでになったことがある様子。
彼のお辞儀は、嘘偽りなく直角、つまり、90度に曲がり、2秒停止する。
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打合せと相談をするために、Hさんが二度目においでになったとき、話はおわっても彼は直ぐに帰ろうとしなかった。
彼はわたしの話を聞きたがっていることに程なく気付いた。
聖書の話ではない。
初めて会ったときに、わたしは稚内から転任してきた人間でアリ、その前は九州、さらには新潟と挨拶した。
そのわたしの物語を彼は聞きたがっていてくれた。興味を持ってくれているのだ。
生まれてこの方、間違いなく住民票移動20回を既に肥えている。浮き草のようでもあったわたしが語る話を。
いや違う。
実は彼は、無意識のうちに、わたしの後ろで働かれる神さまの御支配に触れてくれているのだ。
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12月28日(月)
『日々の聖句・LOSUNGEN』のみ言葉はこれ。
【わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。】(第一コリント書 15:58)
アーメン。そう言うほかない。
そしてわたしはこのみ言葉を想う。
【神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。】(ローマ書 8:28)
ほかにも、多くの福音の物語が、この世界一小さなキャロル、そして様々な出会いの背後に秘められていることを思わざるを得ない。
だから、私は教会が好き。
そして伝道を続けて行く。神さまの備えられた道を、これからも歩んで行ける。end
※旭東教会週報コラム・【 窓 】『 私たちの12/23 』に大幅に補筆したものです。
2015年
12月
18日
金
【今、人生を振り返るような年齢になり、つくづく私は他の牧師たちと比べれば成長の遅い人間だったと思います。】
最近読んだキリスト教関連の小冊子の巻頭特集でこう記しておられたのは、わたしが牧師というものになりたいなぁ、とおぼろげに感じ始めたときに最初に相談したS先生だった。
S先生はパッパッと行動し語られるタイプの方。
「森さん、それはショウメイです」とS先生に言われたことが忘れられない。
銀座の片隅から有楽町線に乗り、練馬方面は氷川台駅が最寄りだった6畳と台所の小さなアパートに帰るときに、ボケーッと電車の天上を見ながら「照明かぁ・・・・・・?」とつぶやいていたことも懐かしい。
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そしてまた、わたしが洗礼を受けて間もない青年会の一員の頃に、「“主の祈り"は一日に何度祈ればよいのですか」と真顔で聞いたのもS先生だった。
牧会の第一線は退かれてはいるものの、説教者としてのお働きは継続されているようだし、更には、伝道者としての集大成として祈りや聖書の読み方についての幾つかの本にまとめ始めている様子。
そんなS先生の冒頭の言葉には何かほっとする。
というか、《小器晩成》を自覚するわたしには大きな慰めだ。
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【毎週説教を作らなければならないという生活が、私の聖書読みを導いてくれていたように思います。恵み豊かな神は、私に必要な恵みを豊かに与えて下さっていたのです。】
冒頭の言葉のあとに、このように続けておられるが、実はわたしが強い影響を受けた説教者がS先生だ。
過去形ではなく、今現在も心の奥深くに、ひとりの説教者像としてのS先生が居られる。
昨年秋、日本キリスト教団出版局のベテラン編集者がS先生の説教の簡潔・明瞭さについて最北の町の教会においでになった時に偶然語られた。
編集者は、S先生が世田谷区の教会でお働きだった頃の信徒だったそうだ。
説教時間に関する、えーーっ、とびっくりするようなことを聞いたので、S先生に電話して直接確認させて頂いたのは、もう一年以上前のことだ。
電話を通して想像できたことは、先生の説教が時計の針を忘れさせるほどに短く感じるような形になっていた、ということだった。
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S先生。
大衆伝道、あるいは、都市型の伝道を好んで取り組まれるタイプの方で、多分、現在のわたしの生き方とはだいぶ異なることも多い。
しかし、S先生の説教のスタイルは「evangelist=福音伝道者」というのがピッタリであるからこそ、惹かれるし影響を受けていると思う。
「evangelist=福音伝道者」というタイプの説教者や牧師は、わたしがキリスト者になってから出会った先生方の中にはほとんど居られない。
当時のカセットテープを聴き直すことはもうないけれど、S先生の説教のメリハリがすごかったことを記憶している。
ある時には「起きろーーーーーっ!」という大きな叫び声を何十秒か続けてから語り始められたこともあったはず。
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S先生は、その当時、主任牧師ではなかった。副牧師のお一人だった。考えて見ると、主任だったU牧師は遠い存在、そして、倣っていこうというような方ではなかった。
だとすると、S先生は、わたしが抱き始めた伝道者像の原点に居られたのだと気付く。
もしかすると、今、S先生にお目に掛かると、伝道に対する考え方の違いがますます大きくなっているかも知れない。けれども、その違いは大事なことであるはずだし、わたしの伝道者としての大切な原点がS先生にあることは譲れない事実なのだ。
お元気で居て下さることは、今になってみると何とも有難いことだ。
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数ヶ月前の新聞週間の頃だったか、大きく両開きにして眺めることが出来る“誌面"で読む新聞は、自分が必要としない、あるいは好まない雑音が飛び込んで来るからこそ、今もこれからも意味がある、という言葉を読んだ。
そう語っていたのは、インターネット媒体を駆使して時代に何かを届ける仕事をしている方だったからこそ、説得力があった。
そのような人や本、そして情報との関わりを意識的に大事にしていくことが、少なくともわたしには必要なのだと思う。
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たまたま手にした雑誌の記事で再会させて頂いたS先生。
その肩書きは「日本基督教団 〇□△教会 説教者 S… 」とある。
こんな風に「説教者 S」と紹介されるのは本当に珍しいのではないか、と思う。そしてS先生らしさを感じる。
過日、お招きした関田寛雄先生も掛け替えのない“師"に違いない。
そしてこの度、S先生の言葉に触れ、自分自身の根っこの部分にある大切な部分が、S先生との出会いを通じて形作られていたことを確かめることが出来た。
本当によかった。S先生も、間違いなく“わが師"なのだ。感謝。end
2015年
12月
08日
火
『君はいつ大人になったの?』
このタイトルにはずーんと来た。
そして読んでいって、そうだったのかぁ、と深く納得させられた。
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「君はいつ大人になったの?」
女優で随筆・エッセイストとして活躍している室井滋(むろい しげる)さんの言葉だ。
11月23日(月)の毎日新聞の『おんなの新聞 音痴でヘッチャラ♪』の11月号のタイトルだった。
切り抜いてデスクの横に置き、じっくり何かを考えたいと思いながら時を持てなかった。
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室井さんは前からわたしの気になる人のひとり。
彼女は高校に入学したとき電車通学だったため、「父からセイコーの腕時計を入学式の時に贈られたが、あれで確実に自分が大人モードに背伸びしたような気がする」と記している。
1958年10月22日(57歳)の彼女。わたしと二つ違いだ。
わたしの姉よりは一つ下。Wikipedia・ウィキペディアによれば、富山出身とある。
富山はもう、あの頃電車だったのか。
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大分市の田舎育ちのわたしたちはと言えば「汽車通」と言っていた。
いや、国鉄・日豊本線の「神崎(こうざき)駅」迄は、南に向かって電車が走っていたけれど、その先は電化されておらず、ディーゼル機関車、そして、小学生の頃は、普通に蒸気機関車・D51 が走っていた。
夏になるといとこがやって来て、カメラを構える意味がまったく分からなかったのだ。
おっと、現在のわが町の西大寺駅も含む赤穂線、そして3月までお世話になっていた北海道の宗谷本線は、今でも単線で完全には電化されていないはず。
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室井さんが高校生で腕時計を初めて手にしたとすると、私の方が中学1年の時から手にしたので、ひとあし先だったのかと気付く。
「君はいつ大人になったの?」
澄みわたった感のある問い掛けだ。
そして、振り返ってみれば誰もが自問できる問い掛けだ。
室井さんが記して下さった腕時計。
確かにわたしにも思いで深い事が幾つかある。
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わたしが腕時計をしたときに大人になる自覚があったのか、と言えばあるわけがない。
なぜ、あの1972年の4月に森家にとって旧知の時計屋さんがやって来て、家族総出で掘りごたつに足を入れ、机の上に腕時計を幾つか並べられ、「さぁ、どれがいいでしょう」と選ぶことになったのか。
やっぱり、汽車に乗って通うことになった、通称「附中」と呼ばれる中学校へのめでたい入学が契機だった。
当時はまだ腕時計は高価なものと考えられていたし実際そうだった。安い腕時計はあまりなかったのではないか。
デジタル時計も出始めの頃だろう。
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「時」というものを自身で管理するようになること。
これからはあなたが自分で考えて行動しなさい。
そう促されることは、確かに、我々にとって重要な転機なのだ。
そして、他にも幾つもあるであろう、「君はいつ大人になったの?」という問いに対する答えの中で、腕時計を通して考えて見ることは、味わい深い振り返りの時になることを知った。
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牧師館のリビングの片隅に、もはや会うことが出来なくなった家族の写真が、木製の書棚の上に並べられている。妻の父上も居られる。
そこには、1999年に41歳で召されて行った姉から贈ってもらった、動かなくなった腕時計がある。
大学を出て就職した時のものだったはずだ。
わたしの好きなミュージシャンが「WAKE UP」と歌う声と共にセイコーが売り出していたsilver Waveシリーズの腕時計。
ウインドサーフィンをしていたからかも知れない。傷が多い。いやいや、社会に出て、世の傷を自らも知りながら生きる道が始まったのはあの頃だろうか。
「君はいつ大人に…」と聞かれれば、「あの頃からすこしずつ」という答えもあるかも知れない。
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55歳になったわたしは、果たして大人になったのだろうか。
たとえおぼろげであっても、神を通じて、永遠の時にふれ、求めながら生きることは幸せなことだ。
「君はいつ大人になったの?」end
2015年
12月
08日
火
3月末、最北の町・稚内から“風”に押し出されて旭東教会に運ばれ、以来、牧師として歩み始めてから8ヶ月が過ぎた。
初年度だからということもあるとは思うが、やはりあっという間に時は過ぎる。
時が流れた、というとなんだか寂しい。充実していることは確かで、感謝でいっぱいだ。
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季候の違いはほんとうに大きいと思う。
特にこの2ヶ月程は季候の違いが大きいと感じた。つまり秋が全く違うのだった。夏もそうだったけれど、稚内では、「春・秋・冬・真冬」で夏はないに等しく、秋も駈け足どころではなかった。
そう感じる理由はやはり冬の厳しさが並大抵ではなかった、ということにある。
北海道で登録したままの「吹雪メール」。
先日から頻繁に届き始めている。例えば【今後宗谷北部・稚内で3時間以内に視程100m未満の障害が発生する恐れ。お出かけや運転に注意】というような内容。3月下旬、引っ越しの始まる朝も、猛吹雪だった。
南の国育ちの私たち夫婦にとっては、こんな命がけの自然環境はさすがに厳しさもあり、特に妻は左手首を骨折後外に出ることがむつかしくなった。
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最後の冬は、ただただ安全のためだけで、食材の大半を生協の宅配に頼んでいた。もちろん、外での買い物にも出掛けるが、最小限はこれで済ませて、危険を少しでも減らそうとしたのだった。
いやいや、隣り近所のみならず、彼の地では食材の宅配は多くの方が利用していることに気付いたのは3年目になってからだった。
今、「吹雪メール」に象徴されるようなことに身構えて暮らさなくても大丈夫なことは本当に有難いこと。風雪に対する緊張から解放され、大分県は大分市と博多の九州育ちの私たち夫婦は本当に安心して過ごしている。
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11月22日にお迎えした関田寛雄先生。たいせつな先生、正に恩師のひとりである。
87歳になられ、歩幅こそ10年ほど前より狭くなっていたものの説教や講演の言葉の重みと力強さは全く衰えがなかった。
いやそれどころか、鋭さが増した部分もあったのではないか。
夕飯をご一緒した時、少し年下の奥さまのことをいたわり「最も近い〈隣人〉として大切にと思うこの頃です」とお話になっていた。
千葉のご自宅に帰宅前には、奥さまと世界遺産登録された富士山を見る約束をされていたと後で知ったが、その後の私個人への便りにも「大兄もお忘れにならぬよう願います」とあった。
亡き父と同世代の恩師のお元気な様子に触れた私。
隠退後は珈琲屋のオヤジに等ということは返上を促されたように感じる。方向修正開始の時のようだ。ちなみに、大兄は、関田寛雄節のひとつで、お便りを頂くと、時々この言葉が出てくる。
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最近の私のぼんやりとした悩み。
それは近くの同労の仲間たちとの語らいやそれに通じる何かが足りないなぁ、ということだと感じ始めた。
わたし自身ものんびり過ごす日々だとは言わないけれど、地区の教師たちの集まり方と散り方は実に味気ない。
そして何がそんなに忙しいのだろうか、と思う程に先を急いで居られる方が多いように感じるのは気のせいだろうか。
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北海道に居た頃は、同じ地区の仲間たちに、少なくともわたしは距離的にも頻繁に顔合わせすることは無理だった。
けれども、おのぼりさんの様に、名寄や旭川に出掛けていった時は、あれこれ語らう時間があったし、雑魚寝も半分は予定されていることが多かった。
北海教区・道北地区では、10数教会・伝道所の週報を月に一度稚内教会に送って頂き、そういう当番を引き受けていたのだが、妻に助けてもらいながら(大半を彼女が仕切っていたが)『交流ファイル』という名の一冊にまとめ送付していた。
週報や月報の等の情報に触れるだけでも、互いの教会の様子が自然と分かって励まされる事が多かったのだが、今考えるとやはり貴重なものだったと思う。もっとも、わたしの転任後は、その作業も少し間隔を開けているはずだが。
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そんなことを思う中、同じ岡山県東部地区の蕃山町教会が、教会報発行毎に各教会へ送付される姿勢には教えられる。
なんと蕃山町教会の会報は国会図書館にも納める伝統あるものだという。それにはさすがに驚いた。
蕃山町は旧・日本基督教会系の改革長老主義の教会形成をされている。一方の我々旭東教会は会衆主義の組合教会の背景を持つ。
個性は随分違うけれど、蕃山町教会の会報の誌面を通じて積極的な伝道の取り組みを知るとやはり刺激を受ける。子どもたちの勉強会もいつも行っているようだし柔軟な姿勢は素晴らしいと思う。
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さて、この『旭東教会 牧師室便り』も次はお正月号となる。
岡山のお雑煮の出汁は何だろう。
我が家は“かしわ"と“利尻昆布”が近年の到達点のようだ。岡山の餅の主流は丸餅なのか切り餅なのかはまだ確かめていない。
どこに暮らしていても、おいしいご助言、大歓迎である。end