2013年

10月

31日

2013年10月31日(木)№87  『 〈 ABASHRI 〉での〈 安息 〉 』

 

【 豊かなオホーツクに活気みなぎる網走 】

 

網走市の公式Webサイトにはそんな言葉が踊る。その網走に、おそーい夏休みを頂いて出掛けてきた。

 

稚内教会に赴任する少し前に北海道旅行をした時、網走も訪ねたことがあったのだが、その時の印象は、網走刑務所と網走湖だけの町という、まったくもって網走の皆さんに対して失礼な先入観、そして観光の仕方で終わってしまっていた。

 

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「ぜひ、遊びに来て。泊まってください」

 

そんな妻への言葉を真に受けて、わたしたち夫婦は網走に出掛けた。

 

Tさんというウィルタという北方少数民族の〈語り部〉との交流が切っ掛けで、ウィルタの刺繍の指導をなさっているR子さんが「泊まりにおいで」と妻に言ってくれたのだった。

 

妻はR子さんと電話やメールでのやり取りはしていたが、直接お目に掛かったことなど一切なかった。 

 

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10月27日(日)の交換講壇の礼拝を興部伝道所で守り、それから網走に向かって車を走らせているとき、わたしたち夫婦はこんなことを口にしていた。

 

「見も知らない俺たちのことを受け入れてくれるなんて、そんなことってフツウじゃあり得ないよね」「うん」と。

 

途中、道東で牧会する友に電話すると、「出会いだなぁー」とポソっと一言。

 

そうか、出会いなのだ。

 

そして、それこそ、わたしの求めている人生の旅の楽しみなのかも知れない。観光地に出掛けても、めったなことでは感動もせず、面白さも感じないわたしなのだから。

 

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わたしたち夫婦。

 

本当に不思議なことに、何の心配もなくR子さんご夫妻のお宅に向かって車を走らせた。稚内からは400数十㎞だろうか。興部を出てから既に4時間は経った。

 

幸い、カーナビにOさん宅の電話番号を入力すると、真っ暗になった網走の小高い丘の上にあるO家の前らしき場所に辿り着くことが出来た。ナビがなければ決してたどり着けない場所にお宅はあると思う。何しろ、その辺り、殆ど家は見当たらない。畑と森ばかりだ。

 

しかし、ナビが「目的地に到着しました。案内を終了します」と宣言してしまった。

 

でも、どうみても、家らしきものは見当たらない。突然不安がムクムクともりあがり,

「ねぇねぇ、R子さんに電話入れてみて。ここって、全く違うところなんじゃないか?」とわたし。

 

1分後、森の奥の方から、懐中電灯らしきものが揺れながらこちらに近づいて来た。

 

あー、ここで良かったのか。

 

だが、O家の道路端の入口には表札も看板も本当にない。うかつに車を進めると、出られなくなりそうな気配濃厚だった。 

 

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神さまは不思議なことをなさる。

 

辿り着いたO家は、知る人ぞ知る、青森県の岩木山山麓にある〈佐藤 初女(さとう はつめ)〉さんの「森のイスキア」のような家だった。わたしたちにとって。

*佐藤 初女『朝一番のおいしいにおい』女子パウロ会 1997年 他をご参照下さい。

 

御主人は昭和20年生まれの68歳(のはず)。50歳の時一大決心をして、本土でのサラリーマン生活に終止符を打ち早期定年退職。その後、網走に居を構えてから今に至っているとお話くださった。同じ土地に立っていたという、旧家の解体は少しでも費用を抑えるため、二人でせっせと手仕事で行ったとのこと。

 

決して、決してお金持ちというような方ではないのに(ご自身の幼い頃からの赤貧の苦労も明るくお聴きした)、何とゆたかな心でわれわれを受け入れて下さったことだろうか。

 

おそらく、4人の息子さんやそのご家族がお孫さんと共に帰ってこられたときと、そう大して違いのない“もてなし"というのか、向き合い方をして下さったのではなかろうか。食事にせよ、そとの温泉につれて行って下さるときのことも含めて。

 

われわれも少しも肩に力を入れることもなく、ゆーったりとした時間の中に身を置かせて頂き、おしゃべりをしては食べ、風呂に行き、笑い、時に、バッハの曲などをレコードで聴く。いやいや、Oさんのバイオリンにも耳を傾ける。

 

御主人は、おそらく、どんな偉い人がやっ来ても、態度や言葉を一切変えないタイプの方だ。素晴らしい!

 

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御主人のOさん、幼友達と共に神奈川県の川崎の教会に通っていたことや、ご長男が、ある宣教師のご家庭で中学の後半からお世話になったこともあり、聖書のことを、生半可でなく知っておられた。

 

投げかけてくる質問がおもしろい。わたしが牧師だからだろう。聴きたいと思っていたことをどんどんぶつけて来られる。

 

「聖書には“呪う"なんて言葉はないんでしょ」
「“天国"に人間だけが入るなんてのは、どうなの・・・了見が狭いのでは(愛猫のコテツちゃんの死と結び付いている模様)」

「聖書の中の〈憐れみ〉〈Kyrie〉は・・・でしょ!」
 「“みみず"は聖書に出てきたっけ」
「“バッハ"の曲が変わったのはさ、あの頃でしょ・・・」
「“ルター"が聖書を翻訳したのは・・・95箇条の提題・・・」

等々。

 

二日目の夜は、R子さんのチェロとOさんのバイオリンに合わせて、讃美歌を歌い続けた。趣味の域を超えている腕前のお二人の演奏をバックに、我ら夫婦二人が賛美し続けるという豪華な時間だった。こんなことって本当に他のどこにもないこと。

 

わたしが紹介した、『主よ、みもとにちかづかん』には、「おー、いいね、いいね」と言われたので、「これ、教会では、お葬式の時に選ばれることもあります」と伝えた。

 

すると、奥さまのR子さんは「あなたの葬式の時、うたってあげるぅでぇ」と関西のイントネーションで言われる。そう、限りなくキリスト教に親しい気持ちをもっておられるのだ。

 

なんとも贅沢というのか、まったくもって予想だにしなかった展開に、ただただびっくりだったが、本当に楽しかった。

 

このほかOさんは、10年くらい前からは、何とすべて自力で〈窯〉を造りあげ(綿密な設計図から一切)、今は、春と秋に、陶器を焼いておられる。

 

その焼き物で殆どの食器を作られているのだから、これまた驚く。お土産にというのか、食事を頂いたお茶碗ほかまで頂いてしまった。

 

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三番目の息子さんは、東京が本拠の日本でもよく知られる交響楽団のチェリストとのこと。

 

お二人は、札幌交響楽団が毎年12月のクリスマスの時期に網走で行う定期演奏会を楽しみにしているそうだ。

 

雪の降り積もった裏の山道を、演奏会が終わってから夫婦二人家路につくとき、都会では決して味わえない余韻、そして幸せがある、と教えてR子さんはポツリと語られた。

 

かつて、奈良にお住まいになっていた御一家。

 

大阪でも同じ時期に同様の演奏会を聴いていたのだが、帰り道、人々の喧噪の中を潜り抜けて家に帰り着くと、〈Philharmonie〉の美しき余韻は消え去り、疲れ果ててしまっていたそうだ。

 

だが、今の網走では、雪が降り積もった樹木の中の静かで暗い夜道を抜けて、煖炉が静かに燃える家に戻ってくるときの心の豊かさは、何ものにも変えられない、と教えて下さった。

 

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「わたしは、ここが好き」

 

R子さんもOさんも、表現は違うけどハッキリとそう言われたように思う。

 

地元の人しか知らないような300円の風呂に連れて行って下さる途中、オホーツクの漁り火や知床連山の冠雪の眺望を案内して下さったお二人。庭には鶏を飼って居られ、菜っ葉をやる姿を久しぶりに見たり、産みたての卵をおいしく頂いたりもした。

 

何とありがたいことか。人の幸せとは。ゆたかさとは。たいせつにしたいことは何なのか。あらためて考えさせられる。

 

素晴らしい人生の先輩に出会わせて頂いたものだと思う。一切は神が備えられたこと。感謝しかない。continue(またいつか、続篇を記すと思う)

 

※旅の写真、Blog内の【気ままフォト】に少しアリマス♪


 

2013年

10月

25日

2013年10月25日(金)№86  『 御国へ 奥さまと呼んでくれた女(ひと) 』

 

かつて、仕えさせて頂いていた、新潟県上越市の教会からの電話が入った。現任の、誠実で年若い成田牧師の声が聞こえると、わたしは少し身構えることが多い。

 

「森先生ですか。成田です。悲しいお知らせがございます。○○トモ子姉が召されました。前夜式は・・・、告別式は・・・」と日程をお知らせくださる。わたしはペンをとり、メモを記す。

 

連絡をくださって恐縮であり、また、ありがたいこと。同時に・・・・さみしさが募る。

 

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伝わって来た話に依れば、1年半ほど前から闘病が続いておられたトモ子姉は、つい先だっての10月13日の礼拝に、御主人のK兄に寄り添われて、車椅子で礼拝に御出でになったとのこと。

 

そしてその日、『主われを愛す』を捧げられたそうだ。御主人や教会の皆さんが見守る中の独唱だった。

 

あらためて『主われを愛す』の歌詞を見直してみた。歌われたのは1節~4節だが、少し抜粋してみる。

 

(1)
主われを愛す、主は強ければ、
われ弱くとも 恐れはあらじ。
わが主イェス、わが主イェス、
わが主イェス、われを愛す。

 

(3)
みくにの門を ひらきてわれを
招きたまえり、いさみて昇らん。
わが主イェス、わが主イェス、
わが主イェス、われを愛す。

 

そう、『主われを愛す』は、こどものさんびかなどではなく、御国への凱旋の希望を歌う賛美なのだ。

 

余命を告知されていて、終わりの時をハッキリと自覚しておられての、さいごの捧げものだった。

 

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トモ子姉は独学で研鑽を積まれた方だった。

 

上越の城下町・高田でピアノの先生をされて多くのお弟子さんが集い、伝統ある合唱団ではソプラノを長年にわたってリード。教会の中越地震復興チャリティーコンサートでは御主人と共に歌ってくださった。

 

ドイツ語の辞典を片手に、バッハの楽曲に取り組まれ、奏楽を担当される前の平日には、しばしば、独り静かに礼拝堂に身を置いてリードオルガンのペダルを踏んでおられた。

 

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わたしの妻のことを、多くの方はわたしが呼ぶように「みきさん」と名前で呼んで下さるのだが、トモ子さんは、昨晩妻がぽつりぽつりと語ったところに依れば、一度たりとも、「みきさん」と語りかけることはなかったそうだ。

 

「奥さま」

 

まだ、小娘のようなところのあった年若い牧師の連れ合いに対して、そのような敬意をもって接して下さったこと。わたしたちがそれを望んだり、そうしてほしいと願うことなどなかった。

 

お孫さんが「みきさーん」と言ってじゃれてくると、真顔で「奥さまでしょ・・・」と確かに叱っていた。

 

しかし、そうして下さることによって、わたしたち夫婦は何かを育てて頂いたのは間違いのないこと。

 

トモ子さん。

 

お砂糖が安いというスーパーのチラシが目に留まれば、「そこに駆けつけ」るという良妻賢母でありつつ、同時に、時にむちむちのドレスをビシッと着込んで背筋を伸ばして歌われた。

 

その姿は、つねに、凜として美しかった。そして、古風な女(ひと)だったのだ。

 

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「先生、わたし、ちっとも上手くないんですよ」

 

トモ子さんは、オルガンを前にして、幾度もそう口にされた。

 

神はそのようなトモ子さんを愛し抜かれたのだ。

 

そして、最期までその招きに応え続けながら、御国へと召し上げられていったことを知り、わたしは心からの感謝をみ前に捧げる。今、神の御ふところには、トモ子さんがしっかりと抱かれていることを思いながら。

 

ハレルヤ ハレルヤ との声が 御国で響き渡る。そして、わたしのこころの中でも。

 

明日の朝9時より、上越・高田では、トモ子姉の告別式が執り行われる。end

2013年

10月

21日

2013年10月21日(月)№85  『 この時間が必用だった 』

 

教会を離れて、宗谷・道北を流れる天塩(てしお)川に代わって、石狩川がどーんと広がる、石狩平野のまん真ん中、新篠津(しんしのつ)という村に出掛けた。

 

年に一度、日本キリスト教団北海教区が長年続けて来ている〈教職講座〉に出席。帰りに、夏の痔ろう手術のケアを受けるために札幌へ。合計5日間の〈旅〉だった。

 

10月13日の礼拝説教で、アブラハムを通して語った時に、旅と旅行は違う、というようなことに触れた。スケジュールは綿密に管理されている研修だったのだけれど、内容的には、わたしにとって〈旅〉に他ならない時間となった。

 

つまり、思いがけないことも多くあり、出会いという意味では、本当に想定外の出来事が生じることがしばしばあるのが教職講座だと思う。

 

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仲間たちの言葉によれば、今年は少し詰め込みすぎた、とのこと。

 

確かに内容は盛りだくさん。消化するのはほとんど無理。単なる情報とか知識ということではなく、同労の仲間たちの息遣いに触れ、つぶやきと笑顔、背中を見ながら考えさせられた。

 

研修の内容には幾つかの柱があるけれど、それに触れるのは、このBlogではとても無理。

 

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こぼれ落ちていた恵みというか、気付きを二つ三つ四つかな? 記したい。

 

かつて共に学んだ友は、早朝、ひとりテーブルに座っていた。何をしているのかと思いのぞき込んでみると、オリジナルの予定表にアカを入れながら、これからなすべき事を思いめぐらしていた。

気付いた時には、「じゃあな、また」の言葉を交わすこともなく消えていた。それ程、忙しい日々なのだと思う。

 

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楽しみにしていた友と二晩続けて語り合った。ゲームセンターの横の椅子が穴場で、23時過ぎ、宿舎のおじさんがゲームの電源を落とすと、静けさの具合がちょうど良い空間が生まれる。二日目は露天風呂につかりながら、半分は語り合った。

 

わたしが、ごく自然に、かつての悲しく傷ついた思い出をぽろっと語ると、彼も語りはじめる。

 

「peer counseling・ピアカウンセリング」とは、こういう場を言うのだろう。

 

普段、ベタベタとした付き合いがあるわけでもなく、酒を酌み交わす友でもない。しかし、不思議と共通の思いを根っこに持ちながらの安心した交流が持てること。本当に有り難い。二晩共、ゲーセンの長椅子で祈りを合わせて散会した。

 

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東日本大震災の被災地で専従者として仕えている若き伝道者の報告に、わたしも含めて、多くの参加者が涙をながしたのではと思う。

 

とりわけ、彼の持ち時間の最後に、札幌の女性教職のY牧師が、「わたしたちに出来ることがあれば、祈りたい。お話できるのならば・・・」と声を詰まらせながら声掛けをしてくれたことは、本当に感謝だった。よくぞ立ち上がってくれたと思う。

 

「祈ってください・・・」のあとのことは割愛。

 

その後、聴かせて頂いたことを思うと、今も、ズーンと“はらわた”が痛む。

 

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幾人かの先輩(年は下)が、「教職講座の内容は1年掛けて考えるべきもの」という意味の事を話していた。去年は一年目で、まだまだ余裕を持って考えることが出来なかったが、今年は、だいぶ色んなことが見えてきた。

 

触れて、聴いて、手にして、見て、そこに居て。稚内を少しの間離れて、仲間たちとの共同生活をすることは、とても大事な時間だった。

 

部屋中に響き渡るS先生の〈おおいびき〉に、眠れなくて困るかと思いきや、数分で熟睡スイッチが入ってしまった。数年前だったら、部屋を出てうろついていたのでは、と考えて見ると、元気になったものだと感じる。

 

秋のこのタイミングで行われる教職講座。厳しい北海道の冬が来る前に、という長年の積み重ねの中で生まれた知恵なのだろう。

 

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かつてはバリバリの社会派の牧師でした、という同室の先生は、本当に穏やかでありながら、芯のしっかりとした言葉を口にしておられた。親しくなる切っ掛けが出来てこれまた有り難い。同じ九州の出身と知り、これも少し嬉しかった。

 

八十二歳にして隠退を決意された利別教会の相良展子牧師の証しも、まるで、白黒の映画を観ているような情景が目に浮かび、心に焼き付けられた。わたしの母と同じ、昭和6年生まれとお聴きした。

 

そうか、30年前に召された母が元気だったら、等と思わされたりもした。

 

他にも、これまで言葉を交わせなかった方々と沢山のやり取りが出来た。そういえば、こんぶの店開きをしていたが、それも切っ掛けにして会話が弾んだのも嬉しいことだ。不思議な潤滑剤にこんぶがなっている。

 

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福岡に里帰りしていた妻と札幌で落ち合い、家路につこうとしたその時、T姉から、御主人入院の連絡が入った。スイッチの切り替えが出来る電話だった。

 

休憩も含めて陸路約6時間弱。稚内に向かう町々が、一年前とは違う形で目に入ってくる。

 

オロロン街道を走る頃、日本海に浮かぶ利尻山は闇の中で見えない代わりに、いか釣の漁船の漁り火が目に入ってきた。月がまぶしく感じるほどに明るい。都会にはないたいせつなひかりが、わたしを包んでくれていた。end

 

 

2013年

10月

14日

2013年10月14日(月)№84  『 旅の備え 』

 

稚内教会のホームページ、2013年2月7日のブログ。『 “終活”はじめましょうか 』というタイトルで、ポチポチと打ち込み、UPしたものがある。

http://wakkanaich.jimdo.com/)

 

あるお寺の和尚さんの取り組みも目に入って、書いたものだったと。今考えて見ると、こちら(「森牧師の部屋」)のブログの方がよかったかな、と思うような内容。

 

一般に言われるところの「エンディングノート」の〈稚内教会版〉の原案をつくったときのもので、タイトルは、【天国への旅立ちの備え】。簡単に紹介している。

 

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【天国への旅立ちの備え】は、一枚の紙ではなく、冊子形式のものとなった。

 

こういう類いのものとしては、ページが多すぎたかも知れない。でも、どうしても端折ることはできなかった。

 

原案はわたしがつくったが、役員会でも何回か相談し、教会総会を経て完成させた。

ただし、サッさっ書込んでと提出できるようなものではない。

 

別に用意していた用紙で、〈愛唱賛美歌〉と〈好きな聖句〉を記入して提出をされた方は幾人か居られるが、【天国への旅立ちの備え】はそうはいかない。

 

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キリスト教的な考え方からすると、エンディング(終わり)でありつつ、「departure 」(出発)「start on a journey 」(旅立ち)の希望を与えられていることを、教会は明確に語っていくことが大切だし、福音信仰の根源的な部分にかかわるものであることは間違いない。

 

昨日、10月13日の礼拝。

 

創世記11章の終わりから12章にかけてのみ言葉と通して、「アブラハム75歳の出発」という題の説教をした。

 

祈りつつ、わたしが語るように導かれたこと。

 

それは(決して、ただそれだけを語ったわけではないのだが)、わたしたち、様々な「旅」に出るように神からの招きを受けていて、その究極の旅とは、天国に向けての旅なのだ、ということだった。

 

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きのうは、久しぶりに礼拝においでになったご夫妻が居られた。二人にひとりが癌になるというこの時代に、ご夫婦二人して癌を患って居られる。

 

少し深刻な状況にあることを先週末、ご自宅でわたしはお聴きしていたのだが、ほぼその時にうかがったのと同じ内容のことを、きょうは、礼拝後のティータイムの時に、御主人も奥さまも、みんなの前で話してくださった。

 

しかも、抗がん剤治療をしなければ「年単位ではなく、月単位で・・・」というような、本当にシビアな情況だとも語られた。

 

一見するとお元気そうなのに、現実はなんと厳しいことかと思う。

 

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しかし、わたしは、礼拝後のお茶の時間、「あー、これこそ、教会だなぁ」と感じていた。

 

診察室以外のどこで、こういうことを、静かに語り合うことが出来る場所があるだろうか。

 

そこには、苦悩だけでなく、ひかりと温もりがあった、と信じたい。

 

生まれてきた者。誰一人例外なく、平等に“その時"を迎える。それだからこそ、より良くこの地上での旅路を歩みきるためにも、旅の備えが必要なのだと思う。

 

そんなことを深く思う、秋の夜だ。end


 

2013年

10月

07日

2013年10月7日(月)№83 『 意志の弱い男の告白(tubuyaki?) 』

 

話題は、体重の話だ。

 

昨日の日曜日の礼拝。子ども説教で読んだのは、ヨハネによる福音書6章35節だった。

 

【わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない】

 

恥ずかしい話しですが・・・と、み言葉に合わせて、〈過食〉つまり、食べ過ぎについて触れた。いやいや、あくまでもみ言葉への導きとしての話題だが。

 

ちなみに、話の内容は、今週土曜日の夕方くらいまでは、教会のライブ録画の中に収められていると思う。始まって10数分頃の場面のはずです。(やがて、全部の録画をご覧頂けるように、わかりやすくします)

 

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衣替えの季節だ。

 

薄手のカーディガンやベストを引っぱり出す。夏ものの靴下とそれ以外の季節用もあるので、普段、jeansで過ごすことの多いわたしは、いわゆる、ソックスも衣替えとなる。このあたりまでは、まぁ、問題はない。

 

ソックスは体重が増えても、さすがに新しいものを買わないとなんてことはない。

 

去年購入したシャツ。ボタンを上からとめ始めて下に向かっていく。だんだん止まりにくくなっていることに気付いていたがそのままにしていた。まだ、着れるから。

 

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問題は背広だった。

 

冬物に行く前に、合い服の黒いスーツを2,3ヶ月着る。余談ながら合い服の背広、神学校卒業前に購入したものだが、英国のゴツイ生地のお陰か、ビクともしないで今も現役だ。

 

そんなことより、体に納まるかどうかが問題。

 

上着はいい。なんとでもなる。しかし、ズボンの方はどうにもならない。ボタンをとめ、フックを掛けようとすると・・・。とまったが苦しい。いや、非常に苦しい。

 

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高校時代からの親友に、山ちゃんがいる。あるcredit card会社の出世頭に次ぐ位の頑張り屋だ。

 

山ちゃんの背広の着方。前からなんか、俺達と違うよなと思うことがあった。そう、腹が立派にぽこーんと比較的若い頃から出ていた山ちゃんは、中途半端にスラックスをはけない。出ている腹を完全にズボンで隠すはき方になる。

 

後ろから見ると、ズボンのヒップラインというのか、ウエストラインというのか、その位置が高かった。

 

今のわたし。山ちゃんである。山ちゃんと兄弟だ。背広を着る度に(最近は、ほぼ、わたしの場合、日曜日だけだが)山ちゃんを思い出す。

 

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原因はわかっている。

 

「食べ過ぎ」「運動少ない」「早食い」そして、その近辺のことだ。

 

成人の必要なカロリー摂取量は、肉体労働でもないわたしの場合、2千数百カロリーくらいだろう。が、今、食後のお八つを合わせると、倍くらい行ってるんじゃないか。

 

かつて、恰幅のよい体格だった(オデブさんということです)岡田斗司夫という放送作家が居られる。体重 を117kgから67kgへ減らした岡田さんの本は「いつまでもデブと思うなよ」(新潮新書)だが、そこに、かなり論理的なダイエット論が綿密に書かれている。

 

その中に、ダイエットが上手くいくと、「自分に自信がつく」「他人からの評価が変わる」「自分の人生をコントロールできる」というようなことが記されている。

 

うーん、最後の、人生をコントロール出来ていないなんて辺りは、結構、重い言葉だ。たぶん、本当にそのとおりだから。

 

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少しだけ、言い訳。

 

2年と少し前、椅子に座ると、尾てい骨というのか、とにかくお尻の骨の尖っている部分が、痛くて痛くてたまらない程、痩せてしまっていたことがあった。身長180センチのわたしだが、60キロ代前半で、今より15キロは少なかった。ガリガリ君か。

 

その頃の写真を見ると、わたしの場合は(という限定付きか)われながら貧相で哀れな感じにも見える。

 

痩せすぎているよりも、少しふっくらの方が長生きもするようだ(ホントか?)。お酒も飲めないし(飲まないし)、煙草も吸わない(だからなんだ)。

 

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先日、教会のコピー機でお世話になっているお兄さんと雑談をしていて年齢の話になった。

 

「○藤さんは、年は幾つ?」

 

「わたし、まだ三十歳です」

 

「ボクは幾つにみえる?」(なぜそんなことを尋ねたのか、深層心理で若く見えるか、相応に見えるか、気になったのかなぁ?)

 

(○藤君、困った顔で)「うーん、そうですねぇ・・・・」(沈黙、ホントに思ったことを言うと傷つくと思ったと感じる)

 

「失礼なこと言っても、全然構わないよ!」

 

「うーん、結構、わかいと思ったんですよねぇ」

 

「そう」(わたしは心の中で、40代と思ってるのか?)

 

(○藤君、少し油断して)「55歳位ですか」

 

「ワッハハは、もうすぐ53だよ」

 

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顔で笑って、心でで泣いた、なんてことはない。

 

実は、少し嬉しかった。年齢に見合った顔に見えるようになったのかな、と。

 

同時に、実は、自分の心の中で、身勝手な「コジツケ理論」が確立されていることに気付いたのだった。

 

(またもや、心のなかで)
「ほーらね、だからさ、少しくらい太っている方が、いいんだ。こういう仕事の場合はさ、貫禄だって出てくるし」(我ながら、理論破綻を認めざるを得ない 恥ずかしい)

 

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2025年問題( 「団塊の世代」が、2025年には75歳以上となり、医療費など社会保障費の急増が心配されている問題)はまだ遠いが、オイラには、差し迫った危機がもうそこまで来ている。

 

今年の3月、クリーニングに出した冬物の背広、間もなく、出番である。たしかあの頃も、十分危険だった。だから、目一杯ウエスト出しをしたような記憶が・・・。

 

冬は来る、雪は降る。背広もかえにゃいかん。

 

おかしいよなぁ。10年前はダンベル体操だけで、しっかり体重コントロール出来たのに。そんなことも思う。

 

5日前から、ある時からすっかりやめてしまっていた、室内で出来る「step運動」を再開。

 

冬物を着始めるまでに、あと50日位かな? 確か、去年は11月末に、雪が思いっきり降り始めたものなぁ。

 

クリスマス前の、「待降節=アドベント」がリミットということか。主イエス・キリストよ、今年はゆっくりお出で下さい。

 

最後に宣言。我が家に背広を新調するお金はない! だから、ダイエットするしかないのです、と。end

※もう、ウエスト出しは出来ないはず・・・

 

 

2013年

10月

04日

2013年10月04日(金)№82 『 増補改訂版 牧師室便り No.18 』(9/29発行分に補筆)

 

※毎度のことですが、長文です。お忙しい方、体調のよくない方は、いずれまた、でじゅうぶんかと・・・

 

62回目の誕生日を迎えた稚内教会。

 

去年は創立時に尽力された田村喜代治牧師をお迎えしたが、今年は札幌北部教会の会員で、高齢者福祉施設・神愛園清田で総合施設長としてお務めの〈後藤学〉さんを9月22日(日)にお迎えすることになった。

 

数ヶ月前の役員会に提案したのはわたしだった。

 

後藤さんのことについて古くから知っていたわけでもない。でも、不思議なほど何の不安もなかった。そして今、本当にお招きしてよかった、と感じている。

 

後藤さんはお話しすることがProfessionalというわけではない。でも、それだからこそ、信徒のお立場で語られる後藤さんのひと言ひと言は、話に心傾ける信徒の方たちにとって、実に深い働き掛けがあったのではないか、と想像する。

 

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事前のやり取りで頂いた自己紹介文には、【1955年道東の美幌町に生まれ。仏教を信じていた私が26歳でキリストと出会い、聖日礼拝の出席を優先するため、それまで勤めていた仕事を辞めて、昼はラーメンの出前、夜は宿直の仕事をして、30歳を前に社会福祉法人神愛園の職員となる。現在58歳】とあった。

 

JR幌(ほろ)延(のべ)駅のホームに後藤さんを迎えたのは前日・土曜日の昼前だった。3ヶ月ほど前に甥っ子が来稚した時に行動したパターンで宗谷をご案内することにしたのだった。

 

まず、車で幌延(ほろのべ)から天塩(てしお)に抜けることにしていた。昼食に、天塩の道の駅で〈しじみラーメン〉を食べるプランだった。

 

わたし自身も2度目だったのだが、前回よりもおいしく感じて、後藤さんも満足な様子。ウニもチョコッと入っていて、千円なり、は決して安くはないが、ぎりぎりゆるせる代金だと思う。

 

車中で後藤さんから、「あす、礼拝で向き合う方のことを、イメージして準備したいので、少し教えて頂けますか?」と尋ねられた。明日の礼拝のことについて誠実に準備し、思い巡らしておられることがそのひと言で伝わって来た。

 

観光案内をしながらでしたので、途切れ途切れだったが、皆さんのことをお伝えする。小さな稚内教会とはいえ、一人のことについて話始めるとそれなりの時間が必要だ。

 

やがて、“あれっ”と思うことが何度かあったのだった。

 

「あー、その方は○○子さんですね」とよくご存知の様子なのだ。お招きするにあたり、いろんな印刷物をお送りしたが(例えば、教会総会の資料も)あらかじめお送りしていた文集『あしあと』(今年6月発行)を熟読して下さっていた。

 

ありがたいことに、後藤さん、来春の『あしあと』発行時には投稿を約束して下さっている。

 

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サロベツ原野に着く頃には、われわれ、旧知の仲のような気分になっていた(と思う)。肩肘張らせない、そういうお人柄なのだと思うが、お仕事柄とはいえ、すばらしいなぁと思う。

 

サロベツ原野にある展示施設を楽しみ、その後、稚内で初めて見るトンボが飛び交う中、後藤さんとベンチに座ってぼーっとする時間もあった。秋の空気がオヤジふたりをやさしく包む。360度の地平線と雲を眺めながらだった。

 

その後、オロロンLineに戻り、日本海側をさらに北上。

 

礼拝出席が難しい方の中で、T真利子姉のお宅を通るコースだったので訪問することにした。何の約束もなしだったが真利子さんは在宅。どうぞどうぞの声に甘えて上がり込んだ。

 

「なーんだか、森先生が来そうな気がしていたんです。鼻が利くんですね」と言われる。

 

「なにか、いいものがあるの?」とわたし。

 

すると、真利子さん、利尻から届いたばかりという《本まぐろ一本》をお父さんが裁いたからと、冷蔵庫を開いて分けて下さるではないか。かたじけないことだ。

 

妻との打合せで、何か、お刺身を買ってこよう、ということになっていたのだが、神さまが備えていてくださった。それにしても、稚内でまぐろとはめずらしい。夜、牧師館で後藤さんと夕食を共にしたのだが、まっことおいしゅうございました。後藤さんのみならず、大満足だった。

 

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夕食時の後藤さん。この日ばかりは、さすがに札幌から「至急、園に戻って下さい」というような電話は入らないことになっていたため、くつろいでおられた。よかった。

 

礼拝での後藤学さんの語り口調。じつに穏やかでありながら、奨励の言葉には力があった。音声だけでなく、最近始めた礼拝中継は録画を見ることができるので、見直してみた。

 

「みなさーん、おはようございまーす」の第一声は、神愛園の入居者の皆さんに語りかけるようでもあった。そして間がよくて聴きやすい。

 

礼拝の時には「あららら 後藤さん 歌い始めた」と思って少し驚いたのだが、実は、お話の中で最後の方に歌われた『感謝します』という賛美の歌(ワーシップソング)の余韻は時間が経つほどに大きくなり始めたのだった。

 

かなり衝撃を受けた。歌っておられた礼拝の時よりも後になって響いてくる。

 

後藤さんの歌。上手いとかとか、声量がすごかったというのではない。後日、後藤さんとお話した時にご自分でも言っておられたが、高音など、むしろ、音が外れそうになることもあった。

 

でも、そんなこと一切おかまいなしで、後藤さんらしく、ご自分がとても苦しい思いをしている頃の2年間、車の中で歌い続けたというその賛美を、みんなの前で捧げてくださっのだった。

 

信仰の歌を歌う生き方とは、こういう形もあるのだと、深く示された時間となった。聖歌隊とか、音楽の高度な訓練を経たとか、そういうことでなく、誠実に感謝と喜びを歌うその姿に、心打たれたのだ。

 

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スーパー宗谷で名寄に向かう予定だった後藤さんをJR稚内駅にお送りする前に、宗谷丘陵と宗谷岬に妻と共にご案内出来てよかった。

 

好運にも〈サハリン〉がハッキリと見えた。サハリンを見たのは、わたしも稚内に来てから初めてのことだったのではしゃぎながら写真を撮り歩いた。空気も澄んでいて最高に気持ちが良い日曜の午後となった。

 

晴れ間も雲も海も丘陵も美しかった。日夜、大きな責任を担って緊張の日々をお過ごしの後藤さんにとっても、神さまからの最高の贈り物だ、と思った。その時の写真を見ると、後藤さん、ご用を終えた解放感があるにせよ、本当に、いい顔をしている。

 

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話題を変えよう。

 

少し前のことだが、9月15日(日)の夜、名寄で道北地区の委員会の後に、牧師会が行われた。チャーリーこと、興部の伊藤牧師特製のチキンカレーをお腹一杯頂いた。

 

そこには、道北地区が特に親しい関係にあるカナダ合同教会からのお客さまで、わたしよりも少し年輩の女性牧師べヴさんがお出で下さっていた。

 

各地の教会での奉仕を終えて間もなく帰国というベヴさんの話しを仲間たちと一緒に聴くことができて有り難かった。

 

難波真実牧師(士別)が気配りして下さり、いろいろな質問をベブ牧師にしてくれた(質問は日本語です・・・ウイットマー先生が通訳)。

 

ベブ牧師の話はとても面白く興味深いものだった。例えば、お国柄なのか地域の特性なのか、その教会がそうなのか・・・ベブ牧師のお住まいになっている家がどこか、教会の方は誰も知らないという。つまり、牧師館がどこにあるのかなんてどうでもよろしい、ということらしい。連絡が取れればそれでよいのであり、相談に乗るときも、教会よりも外のお店のことが多い、と多分言われたと思う。

 

最後の方で、難波牧師の言葉が切っ掛けで、教会を通じて出会う方たち、特に年輩の方を「respect(尊敬する)」ことと、「story(人生の物語)を聴く」ことを大切にしていると、ハッキリ語られた。

 

わたし自身もそうしたい、とぼんやりと思って来たつもりだったが、少し思い巡らした後にベブさんが語られる姿に教えられた。自分には、今ひとつ不明確な所があったのだ。出会いが与えられている方々の「origina(固有の)lstory(人生の歩み)」に聴き共に歩んで行こうとする道は豊かでと最近とみに思わされている。心して仕えていきたい。

 

菜食主義者というベブ牧師。稚内教会の“利尻昆布”を4袋も買って下さりお土産にしてくださった。

 

昆布バザーに協力して下さっている教会の中に、献身時に送りだしてくれた母教会がある。

 

その母教会で教会学校の奉仕などご一緒していた、亡き母と同世代の84歳のご婦人からメールが届いた。抜粋してご紹介。

 

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頌主 お懐かしゅうございます。今日は、我が家の「稚内教会デー」でございました。・・・礼拝が終わって、ロビーで昆布を求めさせて頂きました。先週買いそびれたので、今日は絶対に!と思って一目散にイエス様の手の下に行きました。私が求めた時、婦人会の係りの方が「今日はこれで32袋目よ」とおっしゃっていました。大盛況です。こんぶの前に短いけれど列ができておりました。

 

実は私、昭和50年ころから利尻昆布一筋でございます。札幌在住中に(夫の転勤で)利尻昆布の味に魅せられました。・・・・

 

お説教「9月15日分」もしっかり伺いました。我が家は空がたくさん見えるところに住んでおります。これから虹を見ましたら森先生のお説教を思い出すことでございましょう。

 

オルガンの素晴らしさがとても心に残りました。音、リズム・・・さすが~と思いながら聞かせて頂きました。胸がキュンとしました。

 

ブログも全部読ませて頂きました。長いですよと書いてありましたが引き込まれてぜーんぶ読みました。「私もそう思います」と申し上げたいことが、沢山ありました。

そろそろ夕食の支度の時間。我が家の「稚内教会デー」もお開きとなります。

主に在りて。

 

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他にも、春先には全く想像できなかった、共に歩んで下さる広がりがゆっくりと起こり始めているのを感じる。みんなで努力して来たのだが、それ以上に大きな力が働いていることを思わずにはいられない。

 

秋分の日、教会の庭でのどかで珍しい光景に遭遇。そろそろお終いの秋桜(コスモス)に、まだ上手に飛べないウグイスの幼鳥が羽根をパタパタしながら、ふわり・フワリと止まったのだった。まるで蝶のように。いやー驚いた。ではまた来月。チャオ!

 

 

2013年

10月

02日

2013年10月2日(水)№81 『 今、貯金を始めています 』

 

※稚内教会が6月に発行した、年に一度の文集『あしあと』より、わたしが投稿したものをブログに掲載します。時期のズレは、そういう事情であります。

 

稚内教会の牧師として働き始めて一年とすこしが経過した。いろいろと変化があるのだけれど、ひとつ、新たに始めたことを記してみたいと思う。

 

一眼レフのカメラが我が家にはある。福岡で暮らしていた時分に、カメラ屋さんに出掛け、店員さんの言葉を聴いて、なるほどねぇと思ったことがあった。

 

「コンパクトカメラでどんなに腕をあげても、一眼レフカメラにはぜったいにかないません。一眼レフカメラならば、誰が撮ってもきれいに撮れます。構図を考えなければ・・・」

 

この言葉にはマイッタ。というか、納得するしかない言葉だった。

 

まっ、もしかするとセールストークなのかも知れないのだが、その言葉を妻とわたしは素直に信じたのだった。以来、ニコン製の、まぁ、一眼レフカメラの中では入門機のような一台を手にするようになった。

 

とは言え、コンパクトデジカメに比べれば明らかに重いし、さして撮影の機会があるわけでもなかったので、半ばお蔵入り状態になってしまっていた。

 

ところが、人生何が起こるか分からないものである。今のわたし。どこかに出掛けるとなれば、必ずカメラを持参。いやそれどころか、毎週日曜日になると、いそいそと、礼拝堂の二階にカメラを持って上がっていくのだった。

 

何をするのか。

 

週替わりで献げられていく講壇のお花を、せっせと撮影し続けているのである。いえいえそれだけではない。何か新しいお昼ご飯のメニューが作られるといえば、それーっと撮影である。

 

最近は、「森センセー、これ撮った方がいいんじゃないですか」というような声も自然に聞こえるようになっている。

 

撮影したものはというと、教会のホームページとわたし個人のホームページに、それぞれ、「写真館」と「気ままフォト」なる写真掲載のページを作っていて、せっせとアップしているのだ。これがわたしの気分転換の時間というわけだ。

 

「うまいっしょ」なんていう気持ちはこれっぽっちもない。

 

でも、腕は無くても、一眼レフカメラというのは、人間の見ている以上に美しいものをしっかりと記録してくれる。それには本当に驚かされる。お花ってこんなにきれいだったの、とか、利尻富士自慢をしたくなることもしばしばである。

 

さらに、デジタルだから、いくら失敗をしてもフィルムが無駄になるなんてことは決して無い。シマッタ・大失敗ということが少ないわけで、お金が無駄にならないことも大いに助かっている。これが一昔前のフィルムカメラだったら、とうの昔に妻から大目玉をくらっていることだろう。

 

ひかり幼稚園で園児たちの姿を記録しておられるプロカメラマンの大橋さんと、カメラ入門者として、時々だが立ち話をするようになった。ある時、大橋さんが持っておられるカメラも、ニコンのものということで、ご自身のレンズを外して、「これで撮影してみて」と我が家のカメラにすこしばかり高級そうに見えたレンズをつけてくださった。

 

早速試しに撮影。「うーん、いいじゃないかぁ」。素人にも使い易さがすぐに分かった。

 

いま、牧師館のわたしの小さな机の片隅に、『ニッコールレンズ 総合カタログ』が置かれている。憧れの大橋さんが使っていたのと同じレンズさえあれば、もしかするとわたし程度の腕でも、もっと美しい写真が撮れるのではないか。そのような妄想を抱きつつ、わたしは貯金を始めることにしたのだ。

 

希望小売価格はレンズのみで99,750円とチト高価だ。しかしインターネットの通販では4割引程度での購入が可能な模様。

 

久しぶりに欲しいもののために貯金を開始した。今年53歳のおやじは、すこしだけ子ども心を取り戻した、というわけである。end

 

 

 

 

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1)写真館に最近ものをすこし ^^♪16.5.30

 

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○『我 ステテコを愛す』(14.7.31)

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