2014年
3月
31日
月
*だいぶ長編です。お疲れの方は、いずれまたお立ち寄り下さい(^^♪
九州から稚内へ2千数百㎞を飛び越えて来て、最初に書き始めたのがこの『牧師室便り』だった。それも24号。月に一度の発行なので二年が過ぎたことになる。
先号から「最北通信」の言葉も添えて記して居る。
稚内教会では毎月一度、〈伝道文書発送作業の日〉を設けていて、『週報』や『こころの友』をお送りする伝統があり、このお便りも一緒にお送りしている。増補版は一年くらい前からだろうか。
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振り返って見ると、一年前は、雪国の教会の伝道実習ということで、わたしの母校でもある日本聖書神学校からお出でになっていたの縣洋一神学生と、共に語らい、学びを重ねていた。
さらに、日記を開いてみると、一昨年の今頃は、稚内グランドホテルで目覚め、福岡から引っ越し屋さんの荷物がトラックで牧師館へと届いた頃だった。
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2012年6月初め、稚内教会・牧師就任式の時のことだと思う。
北海教区総会議長を務めて居られる久世そらち牧師が、こんなお話をされたことがあった。
そのままメモしているわけではないが、「北海教区の牧師は遊び心がないと務まりません。そのことをみんながヨシとしているのです。例えば釣りとか・・・」と。
自然環境の厳しさが特に含まれているのかなと思うが、各地の教会に道外からやってくる牧師たちへの言葉として、おそらく、しばしば口にされている言葉なのだろう。
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確かめてみると、妻も久世先生の言葉を記憶していた。
実は、久世先生のその言葉を聞いたとき、わたしは「うーん。これは困ったなぁ」と心の中で思っていたのだった。
何しろ、気の利いた趣味と言えるようなものは身につけていない。
散歩好きと言っても、着任当初は忙しさにかまけてstop。ましてや冬場の雪で足下の悪い中を歩く元気もない。合唱団に入ってみたい気持ちもあったものの、練習が土曜日にあれば日曜日の準備に差し障り、週の半ばは祈祷会ということになる。
囲碁も将棋もだめ。そんな気持ちだった。同労の仲間たちは一体何を楽しんでいるのだろう。先行きやや暗めの心持ちだった。ま、今考えて見ると、料理を楽しむくらいのことが、実益を兼ねていいことだったかも、と思ったりする。
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とは言え、この二年間を振り返ると、何やら趣味らしきことをいつの間にか始めて居たことに気がついたのだった。
必要にも迫られてとも言えるのだが、それは、一眼レフカメラを手にしての写真だった。
切っ掛けは教会のホームページの始まりで、日記に写真を添えたり、写真館というページを作った都合上、折々の写真をアップし始めたのだ。
おまけに、ほぼ時を同じくしてこの個人ブログ【森牧師の部屋】も開設したため、教会のHPにはどうかなと思うような写真もアップロード出来るようになったため、いつの間にか、何だか楽しくなり始めたのだった。
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毎週日曜日朝、牧師館から一眼レフカメラを首にぶら下げて出発。まずは、礼拝堂に献花されているお花をパチリ。
その後、礼拝中は無理としても、遠方からのお客さまが居られればまたパチリ。続いて、台所からいい匂いがしてくるともう一丁。
はたまた平日には、「先生、利尻富士がきょうは最高」と電話があると、さっそくカメラを片手にエンジン始動という具合だ。
もちろん、自分で休日と定めた日のドライブや出張の時にも、カメラを乗せて出かけて行く。
幸せな事に、北海道という自然の素材は素晴らしい、ということにある時に気づいて、あー、感謝なことだなとしみじみ思う。
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というわけで、いつしか「森先生はカメラが趣味なのね」と勘違いされるようになってきた。ま、本当に楽しいので、当分、やめられそうにない。
一眼レフカメラの凄いところは、自分の目では見えなかったところを、えっ、こんなに美しいものだったのかと後で気がつかせてくれるところだ。
瞬時のことのみならず、花々にしても、レンズというのはすごい。
特に、昨年秋、札幌に所用で出かけた時に勧められた、単焦点レンズの楽しみを知ってから、腕ではなく、レンズの実力が高いから素人でもいいな、と思う写真をとれるようになってしまったのだった。
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日本一でかいのでは、と思うくらいの広い売り場がある札幌ヨドバシカメラでアルバイトしている大学写真部の男子の○○くん。
君が、「ぜったい、こっち、イッチャッテください。(お客様が欲しいと言ってお出でになった)こっちじゃ、たいして変わりません」といってくれたのを、そのまんま、一切疑うことなく「アーメン」して、おじさんはよかった。
ありがとね。また、君に会いたい!
そして久世先生。
お陰さまで、わたくし、いつの間にか趣味らしきものを身につけておりました。
いやー、人間ってまったくもってわからんものだなぁ。ひょっとすると心の奥深いところで、何とか俺にもできる趣味を見つけないといかん、という自己防衛本能が働いていたのかも知れない。
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もう一つ、利尻昆布バザーを稚内教会が始めたのは、ある意味、我が人生において青天の霹靂みたいなところがあるのだった。
最近、かつて九州でご一緒したことのある牧師で、現在は東京のそれなりに名の知れた大きな教会で牧会している方の言葉を、偶然お世話になっている教団出版局のベテラン編集者から伝え聞いた。
「九州教区で主事をしていた頃の森牧師は、利尻昆布バザーをするような人には見えなかったんだけどねぇ」と。
まさにThat's right 。
利尻昆布バザーのために奔走する自分の姿なんて、数年前は、全くイメージできない。「一番驚いているのはわたしです」というのが本当のところなのだ。
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先だってのことである。
神学生時代からたいへんお世話になっ先生ご夫妻から、「利尻昆布を、少しくらいならプライベートに親しい人に勧めてみますよ」というお声がけを頂いた。
かたじけないことで、ほかにも感謝の気持ちを伝えたいと思い、お礼の手紙を書き始めたわたし。
ついでに利尻昆布バザーのことが、もう少しだけでもよくわかるようにしたいものだと思ってパソコンの前に座っているうちに、なにやら、突然、あっとひらめいたのだった。
そうだ! 俺には写真があるじゃないかと。
趣味と実益とはこのことで、文字ばっかりの手紙であれこれ説明するよりも、数枚でも写真があった方がいいかなと気づいたのだった。
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とにかくデジカメは、情報がパソコンの中にデータとして残っているのはありがたい。
さっそく、パソコン本体に気ままに保存しているものをA4の用紙に合計16枚を挿入しナンバーを振って、さらには、別紙にナンバーごとに小さな説明をつけた。
すると、いいのだ。何とも説得力がある。
ホームページをご覧いただけない方にも、利用の仕方によっては、共感をもって利尻昆布バザーのことを知って頂けるのだ。
何しろ、フィルムの写真とは違って、日付毎の管理もパソコンがしてくれている。紙への印刷も素人でもまぁ何とかなる。へたの横好きが用いられているのだ。
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もう一つ、牧師室便りの元原稿を書いた時点では実現していなかったけれど、カメラを趣味にしている、求道者の方との語らいも本当に嬉しい。
Sさん。お仕事、そして、子育てに忙しい方なのだが、過日、念願かなって教会の集会室で落ち合い、カメラ談義に花を咲かせることができた。
ある学校で学んで居られた時に、カメラ好きの先生が毎日耳元であれこれと囁いて下さっていたそうだ。
そこで身につけてこられた蘊蓄(うんちく)を、教会の片隅で耳を傾けることの何という楽しさ。
使徒言行録8章31節に【手引きしてくれる人がなければ、どうしてわかりましょうか】とある。ここの文脈は聖書の読み方のことが言われているが、まさにそのとおりで、これは“写真道”にも通じる。
その時間、わたしが使っているカメラの(使わないともったいないような機能である)絞りとシャッタースピードの使い方のイロハを直々に聞くことができて、もしや開眼か、と勘違いしてしまいそうになった。
お別れする前の40分には、「旧約と新約の違い」「預言とは」「主とは何か」「牧師の役割」というような入門講座を始めることもできた。
そして、さいごは、「お祈りするときには」「アーメンの意味」をお伝えし、祈祷会にお出でになったK兄と共々、Sさんのためにお祈りしてお送りしたのだった。
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おわりにもう一つ別の話題を。
昨年の8月の某日だったと思う。教会にお目にかかったことのなかったおじさまから電話が入った。
「森先生、ご相談があるのです。これからお邪魔してもよろしいですか?○○と申します」と言われてから数時間後。
お二人のおじさまの姿が教会の集会室にあった。
2ヶ月前、わたしは「ピースウォーク稚内」という平和団体の共同代表になってしまったのだが、その切っ掛けとなる出会いが与えられた日だった。
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当初は、「私はもともと、こころの問題とか、ターミナルケアとか、そういうことへの関心が強い人間で、平和のために何かする、というタイプの人間ではありません。たとえば、福岡でデモ行進をするという時も、先頭に立って何かをするなんてことは一度もなく、紛れて、声を上げるのが精一杯ですから」と伝え、かなり、後ずさりしながらお返事したものだった。
それでも、紳士であるお二人は、集会室の席を立ち上がるときには、お一方が「聞いてもらってよかったね」と子どもを諭すように声をかけると、もうお一人は、「うん(声にはださず)」とは言葉にせず、深くうなずきながら出て行かれたのだった。
あれから半年。
なんと、その声を出さずに出て行かれた小柄なおじさまと、今では、元気な声で電話でやり取りしたり、パソコンの使い方をレクチャーするような間柄になっている。
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過日、全国チェーンの居酒屋・養老乃瀧に本当に久しぶりに入った。
それは、「ピースウォーク稚内」の仲間たちとの勉強会兼打合せの後の懇親会だった。
このときは、ありがたいことに、妻も一緒にどうぞとお声がけ頂いていたのだった。
わたしは(残念ながら?)お酒は口にしないのだが、会も終盤にさしかかった頃には、「森さん少し酔っ払ったねぇ」と見間違うような表情でその時間を過ごしていたようだ。
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そこに集った方たち。偉そうな方は本当に居られない。
かつては、宗谷地方のある組織の中でトップに立たれたこともある方がそこには居られるのだが、どなたも本当に謙虚で気持ちがいい。
また、社会の中のキビシイ《闘い》で、さんざん踏みにじられる経験をご家族共々されたと伺っている方も居られる。
さらには、同席された方が、「○○さんは、本当にぶれないから」と言われるおじさんも並んで、笑顔で酒を飲んでいる。翌日の新聞には、そのぶれないおじさんが、地元新聞の片隅の記事に「わたし 地の塩です」みたいな感じで顔写真入りで写っていたりするのだった。
いやはや。クリスチャン以上にクリスチャンみたいな方がそこには居られる。
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わたしからすると、それぞれの分野で尽力されている人生の大先輩ばかり。
こうした出会いが与えられるのも、人口3万7千人弱。隣の大きな町は名寄までなく、名寄との距離は170キロメートルという、程よく小さい稚内だからこその恵みだと思う。
大都市の同様の集いで、わたしが、仮にもピースウォーク系の共同代表になるなんてことはあり得ないと思うのだ。
いつの間にか、本当に大切なことも少し頑固に口にするようになった私。
「この会は、とにかく、どのような立場の方が後からお入りになったときでも、平等に発言ができるように、すべて《さん付け》で行きましょう」等と言いながら、気づいたことを言葉にさせて頂いている。
そこらあたりから始めないと、たぶん、ピースウォーク稚内の働きも本当に市井で根付くことはない、と思う。
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不思議なことに、わたしがこれまで手にしてきた本(書棚に眠っていたものも含め)や人との繋がりによる情報提供が、少しばかりお役に立てることがわかって来た。感謝だなと思う。
そして、こうした先輩方との出会いの中で、伝道牧会への新たな気付きやエネルギーが与えられているのだ。
【有難い】文字通りそう思うこの頃なのである。end
2014年
3月
25日
火
雪どけが進み始め、ようやく道路事情がよくなってきた。
昨年11月の宗谷岬での自損事故以来、久しぶりに遠くにお住まいの方を訪ねることが出来た。
きのうは、枝幸から内陸に10㎞程の所にある歌登地区でのHさんの家庭集会に妻と共に向かった。
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人里の雪どけは進んだものの、山の方の雪はまだとけていない。
となると、困っているのが【エゾシカたち】のようで、浜頓別を抜け枝幸に向かう国道沿いで、かなりの頭数の鹿に出合った。
彼ら、とにかく食べられる草なら何での構わない様子。が、いつ飛び出して来るのか予想がつかないし、死角の場合もあり、バスが突然徐行を始めることもあった。
自動車のヘッドライトが灯り始める頃が一番危ないので帰り道を急いだが、Hさんも昨秋、お通夜に出かけた際の帰り道に鹿をはねて車が大破してしまったといわれた。保険に入っていたけれど、70万円の修理と相成ったとのこと。
「人間をはねなくてよかった」とは全くその通りで、北海道の今の時期、鹿さんには要注意だ。
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13時半前に歌登の酪農家の《Hさんご夫妻》と《すゑのさん》が待つお宅に到着。求道者の《かほるさん》も既にお出でになっていた。
《かほるさん》の愛息子・中学生の“のぞむくん”が、可哀想に、2月の下旬のスキー回転競技に参加していた時、膝を骨折して入院手術をしたり、というアクシデントがあったことを聴いた後に、賛美をし、祈りを合わせて、聖書を読み始めた。
レント・受難節なので、【最後の晩餐・主の晩餐】について学ぼうということにし、マルコによる福音書14章12節~26節のみ言葉を読み語り始める。合わせて、出エジプト記の12章の【過ぎ越し】についても語ることにした。
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ま、その内容はここでは置いておいて、ある問い掛けをして、笑いながらしばらく語り合ったのが、今日のブログのタイトルの「さいごの食事」についてだ。
ここでの「さいご」は「最後」ではなく、「最期」の方である。
わたしは先にこう話した。
「わたし、できるならば、人生の最期は、キリスト教主義のホスピスケアを受けられる環境だとありがたいなぁ、と願っているんですよ」というようなことを話ながら、「人生のさいごに何を食べたいですか?」「元旦に召されたSさんという教会外の方の葬儀をした時に、シベリア抑留でご飯を食べられなかったSさんが、さいごの食事になった病院での夕食時、ご飯ばっかり先に食べていたので、娘さんが叱ったそうです・・・・・・で、その時初めて、父さんはなぁと語られて・・・」
という言葉も添えて、皆さんに問いかけたのだった。
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〇ご飯と納豆
〇梅干(自分で漬け込んだもの)
〇甘いもの
〇ご飯とほっき貝の刺身か甘エビの刺身
〇野菜(山盛りのほうれん草)
〇水飴(自分で創つくったもの)
居合わせたみんな、バラバラだった。おもしろい。
皆さん、ほとんど迷うことなく語られたのも興味深かった。「具合いの悪いときに食欲なんてないでしょ」ということは、ここで差し置いてである。
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「梅干し」 そう語ってくれたのは《芳子姉》だ。「わたしは梅干し」と即答。その後、聖書の学びとお祈りが終わったあと、手製のピザと共にH姉特製の梅干しをご馳走していただいた。きょう添えた写真がそれだ。かなりこだわりがある様子で、食塩の濃度は8%と決めているとのこと。
「野菜」 これは、大正11年・1922年9月生まれの《すゑのさん》だった。今年92歳になる《すゑのさん》。ほうれん草のおひたしをどんぶりで食べるくらいの野菜好きらしいことがわかった。この日、わたしの聖書の話に、時々、相の手のように声をだし「うん、うん」と言いながらうなずいて居られたのが《すゑのさん》で、「わかりました?」と聴くと、笑いながら「わたし、よくわからないけれど、こういう話が好き」と仰っていた。
「水飴」 こちらは《重信さん》。これまた「俺は水飴だな」と即答。これも自分の手でつくったものが食べたいとのこと。馬鈴薯から澱粉が取れるので、それに薬局で買ってくる「ジアスターゼ」(胃腸薬の成分の模様)を混ぜていつも作っていたよ、と言われていた。ただし、最近はダイエットのために「我慢、ガマン」の日々とのこと。棒形の温度計を指さして見せてくださった。
「甘いもの」 これは《かほるさん》だった。自家製のお味噌まで作るかただったので、甘い物好きとは予想していなかった。
「ご飯と〈ほっき貝の刺身〉か〈甘エビの刺身〉」 これはわたしだ。どちらも、北海道ならではと思うが。
「納豆とご飯」 こちらは妻である。ほぼ毎朝、我が家で食しております。「極」というパッケージの納豆がお気に入りの様子。
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ラテン語はほとんど読めないが、ラテン語で「memento mori・メメントモリ」という言葉がある。
ご承知の方も多いと思うが「汝の死を想え」の意味の語だ。
終末観が広まった中世末期のヨーロッパでいわれた格言とされ、神学校のキリスト教史では、中世の修道士の挨拶の言葉として交われていたと教えられた。
楽しく語りながら、たいせつなことに思いをはせることって、やはり教会の交わりならではのことかなと思う。
春の陽射しがやさしい歌登の午後だった。レースのカーテンをしないとまぶしかった。一日経った今も、いい時間だったなぁと、その余韻を味わっている。感謝 end
2014年
3月
17日
月
うまい珈琲を飲みたい。
というか、旨いコーヒーを煎れたいと思う。
ほぼ毎日、昼はミルクティーを頂き、夜まで珈琲は楽しみに我慢しておくことが多い。もちろん、どなたかが煎れる珈琲を頂くことはやぶさかではない。
が、たぶん、わたしにとって、珈琲の楽しみの半分以上は、自分で珈琲をdripすることなのである。
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とは言え、先に言い訳をしておかなければならないのだが、豆を挽くことを、我が家ではしていない。
正確に言うと、「もしや偏頭痛の原因のひとつがcoffeeかも知れない」と思い込んだ時期に、電動millを棄ててしまった(シマッタと今でも後悔)。
したがって、珈琲の本当のツウの方たちからすると「あらあら、そんな体たらくで、おいしい珈琲を飲もうなんていうのが、どだい無理な話」となるはず。
はい、そのことは承知いたしております。
珈琲の豊穣な香りが部屋に満ちるのは、豆を挽くその瞬間であることに異議無し。だから、程ほどの近いうちに、プジョーのcoffee millを買いたいとは思う。
が、さて、どうなるか。森家には“カメラレンズ闘争”も控えていることを自覚しているので、ハードル高しだ。
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数日前のこと、いつもお世話になっている稚内の市立図書館の新刊コーナーで、『コーヒーのおいしさの方程式』(NHK出版・1500円・田口護+旦部幸博著)が目に留まった。もちろん直ぐに借りて来た。
旦部氏はwebsite「百珈苑」で広く知られる方で、バイオ系の科学者。そして田口氏は、コーヒー業界の理論家で、『田口護の珈琲大全』などの著書で知られる人らしい。
同書では、少なくとも以下の条件をクリアしない限り、「よいcoffee」を口にすること等あり得ないと書かれている。
即ち、
①欠点のない良質の生豆の選択(悪い豆の除去)
②煎りたてのコーヒー
③挽きたてのコーヒー
④いれたてのコーヒー
そして、田口さんは言い換えてこう言われる。
「欠点豆のない良質な生豆。その豆に適正な焙煎を施す。煎り豆が新鮮なうちに正しく粉砕する(挽く)。そして正しく抽出」
それがなされたときに、はじめて、よいコーヒーを飲める可能性があると。
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『コーヒーのおいしさの方程式』の中には、こういうことも書かれている。
コーヒーの味は常に不安定。揺れ動いている。焙煎も一定ではない。粉砕、抽出も定まらない。・・・プロに求められるのは、常に、同じ味を提供するという味の再現性である。
そう。プロでも難しいということだが、それを安定して提供できるのがProfessionalのわざなのだろう。
そして、わたしは次の言葉に深くうなずく。
一杯飲んだら、さらにもう一杯飲みたくなるようなコーヒー ―― 私はそんなコーヒーを提供していきたい。
そうなんです田口さん。その瞬間を求めて、わたしcoffee煎れてますもの。
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我が家で煎れるコーヒー。
20回~30回に一度位だろうか。いろいろな偶然が重なってか、これは旨いな、と感じるコーヒーと出会う。
今回手にした『コーヒーのおいしさの方程式』に依れば、完璧な紅茶のいれ方は確立できても、コーヒーのそれはあり得ないと断言している。紅茶は実は誰もが簡単に入れられる、ということなのだ。
紅茶ファンは怒るかも知れないが、コーヒーのプロは「紅茶に比べてコーヒーには雑味のもとになる夾雑物(不純物)があまりに多く、高度な抽出技術が必要になる」とまで書かれている。
わたしもある時期、少し調べて見ていたのだが、コーヒーの専門誌には【抽出名人】と呼ばれる人たちのことが特集されていることが多かった。
素晴らしい生豆。
それを相応しい焙煎を施した上でない限り、どんな名人であろうとも、スーパーの袋詰めの豆を買ってきてcoffee potを手にして、真心を込めてお湯を注いでも、「さーすが、名人は違います」ね、という珈琲は飲めない。もちろん、それでも個人差は生じるに違いないが。
そのことを、明確に知れて本当によかったと思う。
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ふだん我が家では、妻がインターネットショッピングによって、少しでも上質の珈琲をお値打ち価格で買えないか、と探す。それが2~3週に一度の定例行事だ。
お安くなっているのは、珈琲缶か袋詰めにされて少しばかり時間が経ったものが多い。もちろん、何らかのラッキーも重なって、お値打ちの値段の新鮮な珈琲豆を手にすることもあるが、程ほどのものに違いはない。
『コーヒーのおいしさの方程式』を読んで悟れたことがある。
庶民が限られた予算の中で、超絶な珈琲に出会えることは、実は、らくだが針の穴を通るのに近いではないが、稀なことなのだ。
それゆえ、本物のProfessionalが、カウンター越しに、最高の豆を準備して、一杯1200円とか800円とかの珈琲を差し出してくれるのは、決してお高いものではなかった、ということだろう。
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昔、高田英治という牧師が居られた。
なぜ、いきなりここで高田牧師かと言うと、実はこの先生、コーヒーの世界では、ある時期(1980年前後かな)、そうとう名前の知れた方だったのだ。
桑名教会、名古屋教会、そして、福岡でも名門の福岡渡部通教会の牧師をなさった方で、『イエスに出会った人々』(教団アルパ新書)、『道標』(福岡渡部通教会による自費出版)等の本もある。
まさに知る人ぞ知る方で、ある年に、教会の牧師であることにアッサリか深く悩みつつなのか見切りを付けてしまう。
その後何年か経って、杉並区西荻窪に東京珈琲専門学院を設立。その学院長として、また、学院に併設されていたお店に立って珈琲の道に身を置いて居られた。
それだけでなく、新宿3丁目では教え子に「25時」と言うスナックを任せるオーナーとして歩まれていたそうだ。
何とも面白い生き方をなさる方が居られるものだ。
さらに、東京のJR目黒駅から徒歩20分程の所にある、日本庭園が美しいことで知られる有名結婚式場のキリスト教式の結婚式に長年仕え続けられた方だった。素晴らしいお式をなさっていた、との伝説がある。
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高田先生の奥さまも、色々な形でサポートなさっていたことを、私も聞いたことがあった。
そのお連れ合いが「珈琲美学」というお店を箱根方面、伊豆高原に構えられ(高田先生の没後か)、お店の中のホワイトボードにこう書かれている、証拠写真が今でもネット上にある。
以下はその抜粋。
●おいしいコーヒーを 淹れるためには 色々なことが重なり合って初めてできることです。(最重要なことは、良質の原材料ですが)
●例えば、ドリップの場合など、不完全な器具ですから、ことに、人の手による要素が かなり味を左右します
●・・・安直な電動ミルを使ってコーヒーメーカーなどで淹れたコーヒーは半分の味もでません!
●粉に挽いて半日もたったりしたのでは全くダメです。(出来上がったコーヒーは3分しかもたない)
●昔の生活は毎日、鰹節をけずる音で朝が来ました。翌日の分まではけずりません。「めんどうくさい!」と言う方は、コーヒーを淹れる資格がないのです。コーヒーがかわいそう・・・
まったくそのとおりだなと、と思う。
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もし、ドリップコーヒーをご自分で淹れている方が居られたら、一度、いつものペースで落としている珈琲。
最後の、40㏄位の珈琲、別の容器に入れて見て下さい。
どうかな?飲めます? すごい味しません?
『コーヒーのおいしさの方程式』では、さっさと切り上げて、濃いめの珈琲をお湯で割った方が、余程、科学的にもよいcoffeeを味わえると、記して居る。
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それにしても、高田英治先生が、なぜ普通に教会の牧師であることをお辞めになったのか。
その事情は、単純なものではないに違いないが、珈琲道に深く足を踏み込んで行かれたその理由は、珈琲の世界が持つその奥行きの深さにあるのではないだろうか。
そう考えるのは、あながち間違いではないと感じるのだ。
私のコーヒーとのあゆみも、これからじっくり楽しみながら続けたいな、と思う。
もし牧師を辞める日が来て、妻がゆるしてくれて体力があるならば、真面目に喫茶店のカウンター越しに、珈琲を煎れるおじさんになってみたい。そう思っている私なのだ。
****************
18歳のある日、わが故郷大分に暮らす岳雄くんの部屋を訪ねて行ったとき、コーヒーの良い匂いがしていた。
岳雄くんが、ドリップ珈琲を落とした後のカスを指さし、「おう、げん。もう一杯くらい出るやろ。お前も飲め」と言ったのは、見事な大ウソであったことを思い出しては、ふと、おかしくなるこの頃だ。
神さまはわたしに、奥の深いものをおしえて下さっているなぁ、と感謝している。ほんと、珈琲をあれこれ試しながら煎れることはささやかな庶民の楽しみなのだ。end
2014年
3月
12日
水
牧師というもの、いつ、何時、どこからの助けを求める声が聞こえてきても、すぐ対応。
ま、それが基本である。
幸い(いや、少し不幸か)、お酒の飲めないわたくし。へべれけを理由に「明日の朝まで待って下さいね」ということはない。
1年と少し前、あるご婦人から教会に電話があった。
はて、真利子さんから電話とは何事と思った。
「せんせい、今、忙しいでしょ・・・・」と。何やら思い詰めたようにも感じた声。
ご存知の方も少し居られるかな、このブログを読んでいる方。
1年前のその電話、続いたのはこんな言葉だった。
「早春の利尻富士が、今朝はあまりにうつくしいから、先生カメラ持って来なさい」という内容。
その時撮影したものが、教会で始めた利尻昆布バザーのラベルの写真となって、今に至っている。
****************
あれから一年と少し。
再び、真利子さんである。
「せんせい、昨日は週報ありがとうございました・・・・。今、先生、お忙しいでしょ!」
にぶいわたくしも、少し学習。
「真利子さん、ふつう、フツウですよ。利尻がキレイ?」
続いて真利子さん。「〇〇があるから、お昼に少し・・・」
「直ぐ行きます」と出かけた先にあったご褒美が上の〈幾枚かの写真〉と気ままフォトの部屋にある〈毛蟹さん〉。
毛蟹さん、お目々が少し怖いけど、今夜いただきます。
でもそれ以上に、ご馳走は、やっぱり、空と海と山と陽射し。そして今朝はカモメ。
春のやる気が出てくる嬉しい朝だった。
ちょうど一年前に稚内にやって来てくれた、神学生の洋一さんに、遊びにお出でと、メールを写真添付で送ってしまった。
スマン縣さん。end
2014年
3月
10日
月
神学校というところで学びたいと思い始めた頃、ひとりあれこれと思い浮かべながらイメージしていたのは、修道院のような生活だった。
けれども、修道院がどのような所であるかも知らないのだから、ますますわが貧しい心の中のイメージたるやいい加減なものだった、と言うほかない。
とある映画の中で観たワンシーンから、修道院の世界を創り出していたのかも知れない。
****************
入学がゆるされた神学校。夜間の寺子屋のような学校だった。それまで勉強というものをまともにしたいと思ったことがなかったわたしにとって、本当に寺子屋教育は有り難かった。
そこは、想像していた所とはかなり違った。
それだからと言ってがっかりしたり、絶望したなどということはない。何もかもが新鮮だったし、興奮しながら毎日を生きていたと思う。
聖書を原典で読むための一歩としてのギリシア語の授業の小テストに備えて、単語カードを手にして暗記したりもした。同級生もたぶん同じだったはず。
とにかく、授業にはついていくのに精一杯だった。しかし、心底たのしかった。
****************
卒業してから20数年。
今でもふと思いだす授業のひとこまというのがある。
全体の講義の流れなどとっくに忘れてしまっているけれど、教授や講師の先生の表情とともに、忘れがたい〈言葉〉が今も心に残っている。
つい最近の日曜日、礼拝説教で語るみ言葉としてエレミヤ書がめぐってきた。教団の聖書日課に沿ってのものだ。
その中に【わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す】(エレミヤ書31・33)という言葉があった。
胸に、心に記される言葉が神学校の授業の中にもあった。目から鱗が落ちることばに触れ、心弾むことも多かった。
****************
机を並べた同級生がどう思ったかはわからないが、振り返って見ると、少なくともわたしの胸と心に深く刻まれる言葉を、特に多く語って下さった先生が居られることに気づいた。学問的なというよりも、伝道者としての心得を問うような言葉を発しておられた。
授業の前にお祈りをする。
それは、神学校では当たり前のことではなかったのだが、その先生はいつもお祈りをしてから担当科目の講義を始められたと思う。
必死にノートを取っていたから、今でも、それを開けば色々と思い起こしたり、助けになる情報が記されていると思う。
しかし、それ以上に、エレミヤではないが、心に刻まれ今でもかみ締めさせられるたいせつな言葉を、その先生はたくさん残してくださった。
****************
その多くに、一つのパターンがあることに気がついたのは、牧師になって何年かしてからのことだった。
どのような法則か。
先生はボソボソとした口調で時々脇道にそれて行かれた。そして語り出すのだ。そこで語られる言葉の多くは、ご自身の心にそっと秘めておいてもよさそうな失敗の告白だったり、懺悔とも聞こえることすらあった。
ご家族の病気について口にすることもあったし、皆さんだったらどうしますか?と言う問いかけの時もある。
今振り返ってみるならば、先生も悩んで居られたのだ。
****************
先生が神学校の教授としてバリバリとご奉仕なさっていた頃の『学報』の中に、牧師も含めての聖職者の《やせ我慢の勧め》のような文章がある。もちろん、神学校の学報の文章だから、「アスケーゼ」という言葉を鍵にして神学的な論考となっている。
日本語では、アスケーゼを「禁欲」と訳すことが多い。
先生は、アスケーゼの先にあるのは結論的には「喜び」だと言われる。そしてその途上には修錬や訓練が必要とおっしゃる。しかも、先生らしく、それが人にわかるような仕方ではしなさんな、と言葉を添えられる。
わたしなりに調べて見ると、アスケーゼの本来の意味には、もう一つ、「専心」ということがあるようだ。つまり、より大きな目的を達成するために、他の道を断ってでも集中して心を注ぐ生き方のことなのだ。
いずれにせよ、先生は自分にも厳しい方なのだ。
****************
「みなさん、お祈りしていますか? 教会で一番お祈りするのは牧師じゃないですよ」。そう言われる方だった。
では、先生は祈りをおろそかにされたのかと言えば違うと思った。
ある時に、「自分は祈祷会の時に早く席について待っている」とおっしゃった。その後に言葉を続けたわけではない。
だが、わたしは現場に仕えるようになってようやくわかったのだった。
牧師と神学校の教師と二足のワラジを履く者として、せめて、みんなよりも早く祈りの筵(むしろ)に身を置いて、教会の一人ひとりのことを祈りたい。
そう心の中で語っておられたのだと。
****************
「教会に赴任して信徒さんの家に皆さんは行きますか?」と言われたことがある。
そして全く別の機会だったと思うが、自分は毎週土曜日に、信徒の家庭に週報を届けている、と話して居られた。
なるほど、と今思う。
先生は、ドアをノックしないまでも、その家のポストに週報を届けることを通じて祈りに代えておられたのだ。訪問できなくても、どこに暮らし、どの道を通って教会に通ってくるのか、せめて知っておきなさいということだろう。
土曜日に印刷したての週報を届けつつ説教の黙想をし、週報のことを口にしつつ、自分なりの牧会の在り方を規定して居られたのだ。
総じて先生は、神学生に語ることを通して、退路を断つ道を選ばれていたのだと感じる。それが自らの“務め”と言い聞かせながら。
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本を出すことを好まない先生だった。もう15年前になるが、隠退されてほっとされた頃に、一冊の本をまとめられていて、わたしの手元にもある。なぜか、時々開いてしまう本だ。
「あとがき」が始まる直前のページに、こんな言葉を記されている。
【隠退後のストレスは今のところない。(ただし、ただ一つの我慢は、今も心にかけている懐かしい教会のかたがたに安否を問うような連絡を私の方からはしないことである。これを守るにはかなりの精神的エネルギーが必要である)。】
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先週の後半、木曜日だっだろうか。牧師館の電話がなった。妻が出た。
週の半ばから、全国ニュースで北海道東部と北部に猛吹雪という情報が流れていた頃だった。
「〇〇さんからです」と妻。
〇〇さんと聞いて思い浮かぶ知り合いは、二人だけしか居ない。
どちらも電話を自分からしてくるような人ではない。そのうちの一人が、ここまで記してきた先生だった。先生と電話で最後に言葉を交わしてから20年以上が経っていた。それも、気まずい会話だったことをハッキリと記憶していた。
受話器越しに「〇〇です」とボソボソっと聞こえた。
「〇〇〇〇〇先生ですか」とわたし。
「そうよ。だいじょうぶ? もう、我慢できなくてねぇ、とうとう電話した・・・・。大変でしょ。よく行ったねぇ。天気予報を見る度に、家内と話しているんだよ。正直に言いなさい・・・」
「よく・・・」とは、自然環境の厳しい稚内に、いくら招聘(しょうへい)があったとは言っても、大変だろうに、という意味だと思う。
もしや、奥さまの前であまりにつぶやくので、「あなた、そんなに気になるなら、我慢しないで電話すればいいじゃないの」とでも言われたのだろうか。
「頑張れとは言わない。あのねぇ、いつも思っているから。祈っているから」の言葉で電話は終わった。
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先生が書かれたご本の最終ページに記しておられた。
「ただ一つの我慢は、・・・・・安否を問うような連絡を私の方からはしないことである。これを守るにはかなりの精神的エネルギーが必要」
という言葉は、牧会された教会の信徒の方たちだけに向けられた言葉ではなかったのだ。
既に80歳を過ぎたはずの先生。しかし【わが師の〈アスケーゼ〉・「やせ我慢の神学」】に〈ほころび〉がみえた。
いやいや、〈ほころび〉ではない。
〈よろこび〉と〈ほほえみ〉が受話器越しに感じられた瞬間だった。
隠退されても牧師であり先生。教え子のことも牧会して下さっている。
〇〇先生、本当にありがとうございました。電話は切れても、何かがしっかり、つながりました。元気でいらして下さい。end
2014年
3月
03日
月
「ひとりの寄る辺ない人間」と関わることについて記されている『小論』が目に留まった。
下稲葉康之というドクターが居られる。
下稲葉先生は福岡市博多区の香住丘キリスト福音教会(九州福音キリストフェローシップ)を開拓伝道された牧師でもある。
しかし下稲葉先生。現在は、福岡にあるキリスト教の精神に基づく栄光病院の理事長で同病院の名誉ホスピス長を務めておられて、教会の方は今、協力牧師のお立場のはず。70歳は越えている方だ。
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わたしは下稲葉先生と個人的なお交わりがあるわけでは無い。
けれども、20年程前から栄光病院の協力牧師会のメンバーに連ならせて頂いており、福岡を離れた今も、緩やかな交わりが与えられていることを感謝している。
先週、栄光病院のNPO法人栄光ホスピスセンターの機関紙『栄光ホスピトラ』の最新号(2014年2月1日発行)が届いた。月曜日の今日、ちょっと時間があったのでじっくりと読み直していて、下稲葉先生の言葉に立ち止まらされた。
小論のタイトルは、【改めてホスピス緩和ケアの原点を考える~「個の力・チームの力」~】。
その中に、「寄る辺ない人」という言葉が出てくる。
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下稲葉先生は、日本のホスピス医療の草創期から関わり始めて、現在では、国内では有数の病床数を持つ病院に育てられた方として広く知られている。
先生の小論の最後に、「これまで七千数百名の患者さんが私たちスタッフを育んで下さった」とある。
七千余名の方々を看取られるとは生半可な数ではない。その中の幾人かは、わたしが教会生活をご一緒した方や教会員の家族だ。
既に、病院運営のための次世代へのバトンタッチや地域に貢献する医療の革新的な取り組みを推進されている方が、現時点でたどり着かれた末期ガン患者さんの存在を表す言葉。
それが「寄る辺ない人」だと言う。
【「末期状態の患者」と云うよりは「寄る辺ない人」として、様々なアプローチを続けている】と明確に記されている。
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【寄る辺】とはそもそも、どういう意味か。
わたし、自信がないので、辞書を読み較べた。
フツウ、我々が使うときは「寄る辺《ない》」という否定の形で使われることも念頭に置きつつ考えてみよう。
■『新明解国語辞典』は簡潔である。「たよりとする所(人)」
■『スーパー大辞林』は少し長く、「たよりにして身を寄せるところ。たのみにできる親類縁者」
■『広辞苑』は「たのみとする所。よりどころ。よすが」
なるほどねぇ。【ない】とセットにして、総合するならばこうなる。
「頼りにする人も、親戚縁者も、身を寄せる所も、よりどころも無い状況に置かれている人」。
それが、下稲葉先生が言われたところの、「ひとりの寄る辺ない状況を生きる」と言い表される人間像なのだ。
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下稲葉先生の小論の舞台として第一に考えられること。
それはもちろん、終末期状態を生きる患者さんとの日々、即ち、人生の終焉に臨んでいる人との関わりを持つ病棟や病室でのこと、となる。
がわたしは、下稲葉康之先生が現時点で到達し、小論において記されていることを、〈ホスピス緩和ケアの場〉から〈教会でのこと〉に置き換えて考えてみた。
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すると、まず思い浮かんだのは、誰よりもわたし自身が「ひとりの寄る辺ない人間」として過ごしていた頃のことだった。
なにも隠しようがないし、本当にそうだと認めるが、実にわたし自身が寄る辺ない人間だったのだ。
わたしが、自らの意志で思いを定めて教会に通い始めていた頃、本当にわたしには居場所が無かった。ある疾患が理由だったとは言え、行く場所も無かった。
なにより、身を置く場所がどんどん失われていくことを実感していた。入退院の繰り返しの中、こころ落ち着く場所が病院というような状況だったのだ。
そんな“浮き草状態”のわたしを救ってくれたのが、実は、東京の銀座のど真ん中にありながら、なお下町の家庭的な空気が残る都会の教会だった。
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小説家の後藤明夫氏は「昨年の入院、手術は“過去”であるが、単なる“過去”ではなく、“現在”でもあるが、もちろん“現在”だけでもない」と『メメント・モリ 私の食道手術体験』(中央公論社、1990年)の中で記している
「ひとりの寄る辺ない人間」であったわたし。
過去においても「ひとりの寄る辺ない人間」であったと同時に、今も、そのことと無縁では無く、現在も「ひとりの寄る辺ない人間」として生きる誰かとの出会いが与えられている。
否、今の私も、妻が亡くなってしまえば、ぽつねんと立ち尽くすか、座り続けてしまう人になるのだろうと思う。
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しかしながらである。
栄光病院の下稲葉先生は、「ひとりの寄る辺ない人間」との関わりを持つ上で、一定の限界を認めつつも、なお未来に希望を見いだそうとされている。
「ひとりの寄る辺ない人間」との関わりには、当然、「個の力」が必要なのだ規定される。しかしそれに留まらない。
それと同時に、「寄る辺ない人」の持つ、多様で深刻なニーズには、「個の力」(病院では医療スタッフ)が総合されてチームとして関わる時に、総合的な「チームの力」を「ひとりの寄る辺ない人」に対して提供できるはずだ、と結論付けられている。
そこで指摘されていることは、まさに教会という、わたしが生きている場においても、そのまんま当てはまることに違いない。
個の力には限界がある。だからこそ、キリストを土台とした幹に連なる共同体としての力が必要になるのだ。
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下稲葉先生はその小論の中で【陶冶(とうや)】という言葉にも触れられている。
かなり控えめに【陶冶(とうや)】について触れて居られるが、わたしはそれがたいそう気になった。
ホスピスケアのスタッフの一員として、つまり、患者さまに仕える立場の人間は、人格陶冶(とうや)が必要だと言われているのだ。それは、ご自身にも当てはめながら記されていると思う。
【人格陶冶(とうや)は私たちの耐えざる課題として銘記すべきことである】と明記されている。
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未熟者のわたしは、「陶冶(とうや)」という言葉を日常的に使えるような人間ではない。習熟しているともとても言えない。が、学ばなければならないことと感じる。
「陶冶(とうや)」とは、おおむね、【人間のもって生まれたものを、色々な試練を経させて、役に立つ、一人前の人間に育て上げる。人の性質や才能を鍛えて育て上げる】という意味だと言える。
「ひとりの寄る辺ない人間」と出会い続けるために、陶冶(とうや)、それは避けて通れないことなのだと言う。
そう、自己訓練や鍛錬、あるいは、キリスト者としての修錬がわたしにも必要なのだと考えさせられる。
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【患者さんが私たちスタッフの「個の力」「チームの力」を育んで下さった。授かったこの「力」でこれからの新しい患者さんとの出会いを大切にお仕えしていきたいと思う】で締めくくられている小論。
特定のパーソナリティーやカリスマ、そして、リーダーシップによる、共同体の成長や展開には限界がある。
そのことを深く認識されている下稲葉先生の言葉は、今、わたしが生かされている現場に通じることを思わずには居られない。
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キリスト者以外の方が読まれる読みもの。それが『栄光ホスピトラ』であるから、遠慮しながら、下稲葉先生はこう記して居られた。
【ここで、キリスト者としての立場で敢えて申し上げるならば・・・】と控えめに言いつつ、聖書の言葉に触れている。
【3:18 わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。】(第2コリント書3章18節)
このみ言葉を引用されることは、栄光病院のホスピス病棟で七千名を超える死に直面する人々に仕え続けて来られた先生らしさが溢れていて、本当に素晴らしいなと思う。そして嬉しい。
一切の働きの土台は主によるものだと信じ、告白されているのだ。
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わたし自身が、陶冶(とうや)されることを避けていてはならない。そして、〈わたしたち〉にもその厳しさが求められる。
そして、個の力を豊かにすることを願いつつ、同時に、自らの限界を認めざるを得ないがゆえに、まさに、わたしの生きている文脈の中でのさまざまな「チーム力」を大事にしながら歩みたいものだと思う。
わたしの知っている下稲葉先生。患者さまにはやさしさに満ちている方だ。
けれども、わたしたちが向き合ってお話を聴くときには、下稲葉先生も牧師であるからだろうか。いつも、厳しさを羽織っておられると感じる方だった。そのような、先生の言葉を今読めたことを感謝したい。
「ひとりの寄る辺のない人」との出会いは、この最北の町において今も、これからも続く。end