2016年
1月
26日
火
1987年頃のことと思う。
私自身の〈献身〉を最初に相談した鈴木崇巨(たかひろ)牧師の著書に『牧師の仕事』(教文館)がある。
鈴木牧師は当時、東京の都市型の礼拝出席が朝で300名程の教会の副牧師を務めて居られ、青年たちにも慕われていた方。そしてその説教はさまざまに刺激を受け続けた方だ。
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先生のご本の『牧師の仕事』は「アーメン」と素直に言えないこともあれば、「まったくその通り、よくぞ仰ってくださいました」ということも含めて読み直すと面白い。
特に最終章だったか、牧師ならば誰でも考えざるを得ないことをズバッと言い切られている。
神学的な検討を先生のバックグラウンドを大切にしながら論じられているけれど、バルトやボンヘッファーとかトルナイゼンという人々の重厚なスタイルの本とは異質のもの。それゆえ、その方面の方々からは、あれこれ言われることもあったと思うし、今もそうかも知れない。
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でも、何も書かないで論評するよりも遥かにすばらしいことで、むしろ考える切っ掛けが提供されているだけでも有難いこと。
特に、evangelist=福音伝道者としての道を求め続けられたと思うところがある鈴木牧師らしさが、感化を受けた私からすれば本当に興味深い。
奥付を見ると、バリバリの現役牧師として仕えて居られた60歳頃に400㌻の書を世に問われた姿勢にも励まされる。その集中力は並大抵ではない。
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とは言え、最近手にした先生の小著(なんとノートの形をしている)『求道者伝道テキスト』の終わりの方にこういう言葉を発見して喜んだ。
「私は洗礼を受けて30年ばかりしてから、自分が本当に信仰をもっていることを感じました」とコラムと共に書き添えておられるではないか。何とほっとする言葉だろう。
タイトルにも掲げた『牧師の仕事』。次のような目次がある。ここでは帯から抜き出しておく。
「牧師」「召命」「按手礼」「着任」「日々の生活」「牧師の常識」「牧師の書斎」「礼拝の指導」「説教」「洗礼式」「聖餐式」「祭服」「祈祷会、その他の会」「訪問」「カウンセリング」「困難な問題への対応」「牧師批判への対応」「伝道」「教育」「運営と管理」「結婚式」「葬式・諸式」「副牧師の心得」「転任」「開拓伝道」「牧師の配偶者」「牧師の家庭と子供」「謝儀」「引退」
教区や教団、地区の働きというような項目が出てこないのも先生の伝道牧会スタイルの表れかも知れない。
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わたしはふと思う。
先生が記してくださった本の目次に無いものに〈整理整頓〉があるような気がする。
10年以上まえだろうか、神学校の同窓研修会の折りに5年程先輩の方が各地から送られてくる郵便物のことのみならずだと思うが、やはり〈整理整頓〉はすごく大事だし現実な問題として口にされていたのを思い出す。
今は亡き大先輩は、説教のための様々な切り抜き整理について語られたこともあった。
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そのようなことのみならず、牧師だけの仕事でも何でもないのだけど、時に「エイッ」と気合いを入れないと、捜しものの時間ばかり長くなり困ったことになる。
説教、聖書研究、地区、教区、教会と様々な書類や書籍の山が幾つにもなり始めると黄色信号が点滅し始めてしまう。
そう言えば実践神学の教授でもあった、故・今橋朗先生は、「雑用」こそ牧師の最大の仕事、という意味の事を授業の中でポソッと仰ったはず。(もり)
2016年
1月
18日
月
わたしが仕える日本キリスト教団旭東教会。
今年113周年を迎える。
初代の方々はどんな暖を取って過ごしていたのだろう。そう寒くはなかったか。火鉢なんてこともありそうだ。
礼拝堂の寒さ暑さを、今後、どうすればよいだろうという相談が始まった。
役員会の元に、《空調関連検討小委員会》という名前の検討の場を設けて提言をしようではありませんか、というものだ。
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現在も頑張ってくれている熱々に燃え上がる大型ストーブは確かに暖かい。
前任の指方信平牧師が2015年2月1日の旭東教会週報コラムに「静かなる長老」というタイトルでこのように記されている。公のものなので引用させて頂く。
以下、【】内引用。
情景が思い浮かぶ素晴らしいエッセイで素晴らしい。この話は一度読んだら忘れられない。
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【メラメラと燃えるような信仰、黙々(モクモク)と祈りを捧げつつ、いつも控えめに礼拝堂後方に席を取っている方がいます。
ストーブ。毎年11月末、まるで「契約の箱」のように壮年たちによって大切に運び入れられ安置されます。もう何十年にもわたって(私の存在以前から!)、冬から春先にかけて、私たちの礼拝を支えてくれる旭東教会の隠れた長老です。
9年間(実働は4年半)一度も故障することがありませんでした。もしこのストーブがなかったら、と想像してみて下さい。今や、ステンドグラスにその座を明け渡した感はありますが、それでも、「旭東教会といえばやっぱりコレ!」と言えるシンボルではないでしょうか。
いつしか私は、このストーブに友人のような親しみを抱くようになりました(いや、お年寄りを労わるような…か)「今日も、よろしくね~。お互いがんばりましょ~。」そんな気持ちで、日曜日の朝、ストーブの前にしゃがみこみ、じーっと給油します。ボタンを押し続け「ボッ」と点火すると共に、私の心にも火が灯り、さぁ主の日が始まります。】
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この素晴らしいストーブ。
さあて、新任牧師のわたしも使ってみよう、という段になって、どなたかの使い方説明がなければ難しいことが分かった。
こうなると直ぐに頼りにしてしまうのがお近くにお住まいの91歳のK長老だ。
あれやこれやとご指導を受けつつも、K長老もストーブの点火に係わるのは本当に久しぶりだったらしく、実はその時、最初は点火しなかった。
その時にはK長老も「ありゃ、これは壊れてしまったかな。来春、分解してしまう時にまた手入れするしかないでしょう」と一旦は言われる一幕もあった。実はガス欠というやつで、わたしの思い込みの給油は不完全だったのだ。
いずれにしても、K長老の腕に長年頼ってきた修理も限界になっているのも現実だ。
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大勢の職員の方々と共に、幼子の保育現場に多少なりとも携わって来たわたしにとっては、やはり何よりも安全性や管理の課題が気になった。
振り返って考えて見れば、いずれの幼稚園も保育園もどんなに寒くても、暖房はエアコンを使っていた。極寒の北海道でもそうだった。
おそらく、それが一番安全、という判断があるのだろう。後は補う機材としては、火の気のない灯油ファンヒータが使われていた。
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かつて新潟の教会で使えていた時には、中越地震と中越沖地震を経験。
本棚がバタバタと倒れ本が飛び出し、考えて見ればいのちも危うい可能性もあった。
被災地の仲間たちと共に苦悩した経験もその後の歩みにはかなり影響がある。
南海トラフの巨大地震が瀬戸内海周辺で最悪の事態を引き起こすこともあり得る、と考えてしまうし、今でも、宿に泊まるときは、頭の位置に絵がぶら下がっていると必ず外してもらうか自ら取り外す。
そして、支配人様宛のメッセージを置いて帰るのが常だ。
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暑さについても検討要の巡りがあるようだ。
壁掛けの扇風機も老朽化し11月末の大掃除の際に処分することになった。
そして、2台の冷房専用機の効き目も25年が過ぎていささか怪しい。夏の高温化も30年程前とは明らかに変わった。
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面白い話を聞いた。
空調関連検討小委員会のメンバーのひとり泰兄がこう言われた。御年67歳の方だ。
わたしが中学の頃、職員室の温度計が30℃を超えると、生徒は一斉下校でした」と。
50年以上前のこととは言え、日本の、いや、岡山と限定してもよいけれど、夏の高温下が進んだことがはっきりと分かる言葉だった。今では笑い話だが、それが日本の夏だったのだ。
そう言えば、農業系の大学校で教鞭を執り、現在も、農家顔負けの野菜作りに励む教会員の現次郎さんも、夏の暑い頃に「先生、暑さの質が変わったんよ。この先、もっと暑くなるだろう」という意味のことを話して居られた。
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初めての空調関連検討小委員会の会議の終わり頃、泰さんがが「暖房の温度設定目標を決めましょう。わたしが仕事場は20度に決めています」とgoodな提案をして下さった。
実は私も、昨秋、温度計を買ってきて礼拝堂の窓辺に置き、暖房の目安をそれとなく調べ始めていた。
我が家には3つある温度計、しょっちゅう目をやっているのに、教会には私の気がつくところには温度計は見当たらなかったので気になったのだった。
というわけで、更に同じ温度計を購入。タイプの異なる温度計では誤差が出る可能性は大いにある。それらを別々の場所置いて、暖かさの具合をチェックすることにした。写真が買ってきたそれだ。
更には、礼拝堂2階にある牧師室のバルコニーに、かつて置かれていたという、暖気の気流作りのための扇風機設置し、あれやこれやと今後の検討材料とすることになった。
時間を掛けて、最善のところに辿り着きたいと願う。
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教会の温度計、という今号のタイトル。
考えて見ると何とも意味深なものだなぁと今思う。
「牧師にはよい意味でのクールさも必要」と大先輩のM牧師に新米牧師の頃に言われた。
「同時に、人に騙されることだってある、あたたかなこころも必要なんです」とも言って下さったことが懐かしい。
旭東教会にも、わたしにも、目に見えないこころの温度計こそが、もっとも必要なものかも知れない。(もり)
2016年
1月
04日
月
『 増補版 旭東教会 牧師室便り 』
2016年1月3日(日) NO.8
「来年まで会えんと思うと、寂しいなぁ」
そう言って病室でお別れした恭子姉は《にこーっ》と笑われた。
病室を正兄と妻の美樹さんと3人でお訪ねしたのは年の瀬12月30日の午後のことだ。
12月23日のキャロルに行って下さったK正兄とI幹子姉からは「かなり辛そうで早々に失礼した」とお聴きしていた。
だからだろうか。よく通う岡山市内中心地方面のK病院への道中、この日は三人とも言葉少なだった。
でも、結果的には幾つもの驚きを覚えることになる。
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「失語症の症状ですねぇ」
医師でもあるK正兄から秋の気配を感じ始めた4ヶ月ほど前にお聴きした時、回復は難しいなぁと思ったものだ。何やら様子がおかしいなとは思った。が、これが失語症という場面に出くわしたことはなかったのだ。
「はい」程度の言葉はでるものの、その後、頭の中やこころの中に描かれていることを我々に伝えようにも、言葉がほとんど続かない。
「あーー」で終わることが多くなった。
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ところがこの日の恭子さん。
短い言葉だが、口ごもることもなくお話になるではない。
美樹さんは数ヶ月ぶりのお見舞い。
「恭子さん前と変わらんよっ」とつぶやいた程だった。
実は更に正月明けの3日(日)の夕刻、訪ねてみると更に驚くべき回復ぶりを示された。
「ありがたいなぁ先生」「よっしゃ、頑張るぞ」とか。
あるいは、同行された、季具枝(きくえ)さんが差しだしたカンロ飴。
喜んで口に入れて、生きて行く力があることを証しするかのように、口の中で転がしてなめるのではなく、カリカリとかみ砕き始めた。
とても美味しそうに。
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年末の訪問時。
教会随一のモバイル少年!正兄(91歳!)は、教会のホームページを見ることが出来る、程よい大きさのタブレットを肩掛けカバンから引っぱり出した。
時々なさることなのだが、ホームページトップの「今週の3枚!」の写真集を開いて恭子さんに見せ始められた。
私もお手伝い。
画面をスクロールさせ、クリスマス愛餐会の教会名物煮込みハンバーグの写真をお見せした。
すると、恭子さんは目を細め、一呼吸いれて言われた。
「あー食べたかぁー」と。
長くお暮らしになった博多弁で。
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12月20日(日)の午前10時頃、実は、恭子さんのお姉さまと妹さんが、礼拝には出席はされなかったが来会。三姉妹、お顔はそっくりで嬉しくなった。
幾つかのことをお伝えになったけれど、「もう、食べ物も口に入らなくて・・・もしもの時には」と言われてお帰りになったのだった。明らかにもう限界です、でも本当に今年一年お世話になって、ということだった。
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奇跡というのは聖書の中だけのこととは決して言えないなぁと知らされる。
この程度のことはよくあるか、と言うとそうは思えない。
もちろん、重荷を負われていることは変わりない。
ベッドの傍らでの沈黙も長くあるし、私も無力感にさいなまれるのも本当。肩をすぼめて変えるとはこのことか、ということが幾度会ったことだろうか。
お祈り頂きたい。
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他にも、教会の営みの中で小さな奇跡と感じることがあった。
瀬戸内市の邑久(おく)にお暮らしの迪子さん(3月で92歳)。
12月23日(水)の午前、ミニキャロリングとして5名で訪問。ご家族からは、車椅子で公園へということもあり、教会に行く元気は……と伺っていた。
その日はクリスマスの家庭礼拝プログラムを使ってご一緒し、帰り際には参加者がそれぞれに耳元で「御機嫌よう」の挨拶をした。
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きくえさん(10月で94歳)がキャロルのメンバーに居られた。
きくえさん、最後に熱烈に教会に来るようにと誘ったのだった。
この時、私は心の中で、「キクちゃん、もう無理は言えんよ」とささやいた。
ところがだ。
12月27日の歳晩礼拝の日。礼拝堂には杖をつきながらのいつもの迪子さんの白髪が見えた。
感謝。
そして、ごめんなさいと思った。
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おいしさが忘れられない2015年のクリスマスの食事がある。
どんなごちそうだろう。
12月19日(土)のお昼ご飯は、ハンナの会の方たちとご一緒した。わたしは他のあれこれで忙しくしていた。そこでご飯ですよ、と呼ばれたのだった。
翌日のクリスマス愛餐会の旭東教会名物煮込みハンバーグや、ゆず風味の浅漬けの下準備にお出でになっていた。
10名近くほど居られただろうか。
その日は、おにぎりと浅漬けとお手製の昆布の佃煮が並んだ。あとは少しだけお値段高めのインスタント味噌汁。
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豪華な何かがそこにあったわけではない。
質素だった。
でも、私はごく自然に「おいしいなぁ今日の昼ご飯」と言った。
とその時だ。
斜め隣に居られた美穂子さんが間髪入れずこう言われた。
「おいしいなぁ、いつも独りじゃから」と。
つまり考える間もなく、ということ。美穂子さん、心底そう思われたのだ。
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去年の9月にはH一成兄が召され、12月にはN和義兄が召天。M由美子姉も秋にはご主人を天に送られた。
それぞれに日々の食卓に変化があったことを思う。
他にもお一人の食卓に着かれている方は幾人も居られる。
そして今思うのだ。
教会は一緒に食べることを大切にする共同体なのだなぁと。
パンの奇跡が様々に起こり、主の晩餐を祝う。
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若い頃に育てて頂いた東京の教会。大教会だ。礼拝は最近朝は340名程度の出席者と統計表にある。
でも、そんな中で、毎週火曜日の早天祈祷会後の朝食がわたしの心の置き場だった。
炊きたてのご飯に生卵とインスタント味噌汁。時に京都の湯葉等が上品に煮付けられて食した。
築地からお出でになる武上さんは朝からアジフライも出してくださった。
やっぱり10数人の食卓なのだが、皆で机を囲んで食べるとおいしかった。
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悔い改めはどこで起こるのか。
恵みにふれたとき。そう教えられた。
わたしは今アーメンと応える。
昔も今も変わらない。きっとこれからも。
2016年も毎月の週報発送に合わせポツぽつと記して行きたい。end