2014年
7月
28日
月
今号、長くなりそうです。体力のない方。既に夏ばての方は、遠慮なくPassをお奨めします。なお、増補版でない方の28号は、PDF版ですが、稚内教会ホームページのお便りの中にあります。
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8月でも平均気温が22度程の稚内。
招聘(しょうへい)を受けて九州から赴任する前に、インターネットでその季候についての情報も少し集めたりもした。ただし、その時は、正直言えばピンと来なかった。
稚内に暮らし始めて一年目の頃は、教会や幼稚園の先生方が26℃位になると、「ひゃー、暑い、あつい、マイッタ」等と言っているのを聞くと、何と贅沢な、これくらいで? と思うことがあった。
涼を求めて水まきを始める幼稚園の先生の行動を見ていて不思議に思ったものだ。
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ところが最近のわたし。25度にもなると、やる気が一気に失せてしまう。本州以西ならば、25度の夏なんて、夢のような気温だと思う。
長野県の軽井沢とか、山梨の清里方面に、さあ出掛けようという人々は、それ位の気温を願って移動を始めるのだ。
だからだろう。新聞を見ているとわかるのだが、この季節、稚内には、プロやアマチュアのバスケットボール部の方々が合宿に来ている。ほんとに運動部の合宿にはピッタリの季候だと思う。
体も動くし、食欲も出てくると思う。
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6月中旬から7月にかけて行われたサッカー・ワールドカップ。日本は苦戦した。日本代表の中心メンバーの多くが欧州のチームで活躍しているため、彼らは一年も日本を離れてしまうと、体があちらの季候になれきってしまうらしい。
そうしたことも、ブラジルで力を出せなかったことに関係しているのでは、という分析を読んだことがある。
ま、私見では、もともと今回の日本代表には、チームとしての逞しさとや力強さというものがなかったのだと思っている。「自分たちのサッカーが出来なかった」というのは、ほとんどのチームに言えることだろう。
話は当地の季候のことだ。とにかく、わたしも、稚内の季節感が体に染みこんで来たのは間違いない。
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6月最後の日曜日。以前もご報告したことではあるが、奏楽はオルガニスト、そして、奏楽者たちの先生として知られている木田みな子先生が担当して下さった。
みな子先生とは神学生時代にオルガン(器楽)を受講した時からのお付き合いだが、実はさらにさかのぼるご縁がある。
みな子先生のお連れ合いは、昨年4月に天に召されて行った、木田献一先生だ。旧約学の碩学というか、新共同訳聖書の翻訳や大型の注解の発刊にも尽力された偉大な先生で、わたしたち日本聖書神学校の同窓生は旧約聖書を教えて頂いたのだ。
その献一先生について、実は神学校の入学前にわたしの父から「木田先生。この人は、東京教育大学(東京文理科大学、現筑波大)の大学院の下村寅太郎先生の哲学のクラスで机を並べていたんだ」と聞いていたのだった。
みな子先生と初対面となった1989年のその時、既に、お互いの親しさがあったのは、献一先生と父のそのような出会いと無縁ではない。
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みな子先生。
わたしからのお世辞は本当にひとかけらもなく、80歳を過ぎているとはとても思えない程お元気さだった。
かたじけないことに、何十年ものあいだ神学校で教えておられて初めてのことだったらしいが、月曜日の講義を休講にしての来稚と相成った。
献一先生の召天後しばらくしてから、おそるおそる電話をしたのが切っ掛けで、北海道で伝道・牧会している教え子の教会で共に礼拝を捧げようと心に決めて東京からお出で下さったのだった。
心の内には「伝道しに行く」という思いも抱いて下さっていた様子だ。実際、神学校の講義の休講理由もそのような趣旨のことを教務の先生に伝えたようだ。
もっともこれもまた、物語があるのだが、新潟県上越市の高田教会に仕えていた頃に、みな子先生をお迎えしての、中越地震の復興チャリティーコンサートを行ったり、賛美を学ぶ計画をしたり、奏楽者の育成の時間を持ったりもしていたので、何だか不思議な交流がずーっと続いている、ということになる。
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みな子先生と稚内入りの打合せをしていたある日、「今、稚内教会の奏楽はどうなっているの?」という意味の質問を受けた。
「かくかくしかじかで、3月末には中学校の音楽の先生が転任されて・・・・ヒムプレーヤーのことが多いんですよ・・・」と伝えた。
すると、「あーら、じゃあ、その日はわたしが奏楽をさせて頂くわ」という事に相成ったのだった。全くの手弁当というやつで、ボランティアである。
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ほんとうに様々な気付きが与えられた木田先生の来稚だったのだが、礼拝のことだけに絞って言うならば、わたしにとって、衝撃的、と言ってもよいくらい、びっくりしたオルガンの音に触れる瞬間があった。
6月29日の礼拝の祝祷後のアーメン三唱の時のことだ。
わたしは、祝福の言葉を口にした後、オルガンがいつまで経っても鳴り始めない。
そのため、「あらら、みな子先生、いったいどうしたのかしら。オレの伝え方がまずかったかなぁ」と心配になり、講壇からオルガンの方に目を開いて見てしまっのだ。
Ustreamの録画を自分で見直したので間違いないが、わたしは心配そうにオルガンの方に顔を向けている。
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と、その時だった。
みな子先生は、しずかーに、体を揺らしながらペダルを足踏みを始めた(はず)。
そして、本当に小さなちいさな、まさに息をするような微かな音がオルガンから出てきた。
アーメン三唱が、少しかすれる程度の音で、ゆーっくりと鳴り始めたのだった。
教会生活を始めてから、あのような小さな音の後奏を聴くのは初めてと断言して嘘はない。母教会のパイプオルガン、ましてや、300人を越える礼拝堂ではあの音は出そうにも出せないだろう。
電気・電子の音ではなく、息を吸うこと、吐くことの大切さを様々な形で実践していると、みな子先生からはお聴きしていたが、まさにあの後奏の音こそが、わたしへのみな子先生からの明確な答えだったことを知った瞬間だった。
ピアニシモの豊かさとはこのこと。一番弱くちいさな音なのにもっとも、心の奥深く残る後奏となったのだ。
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これは私的には事件だった。
あの音は、かれこれ70年近くオルガンのペダルを踏み続けて来られた先生だからこそ到達している領域かも知れない。
あれはテクニックとして真似てもおそらく同じ音は出ないのではないか。
作家の田辺聖子は、話に味が出るのは究極的には「トシやでぇ」という結論に至ったと『楽老抄 ゆめのしずく』(集英社)書いているが、あの日のみな子先生のオルガンの音は、トシとは違う、と思う。
まさに、木田みな子の信仰のあらわれなのだ。そして、大きな深呼吸を伴う祈りだった、とわたしは受けとめている。
あの日、あの後奏がなる前のわたしの祝祷の声は、その日以前とは明らかに違う。幾つかの要素が重なったのだが、礼拝の讃美歌や奏楽を聴き、歌う中で、わたしの祝祷・祝福の言葉は、変えられてしまったのだった。
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さて、毎年7月と言えば道北地区の交換講壇だ。
新潟に居たときもほぼ同じ頃に交換講壇が行われた。春からの慌ただしさも落ち着き、夏休み前のこの季節は交換講壇にピッタリの季節だと思う。
今年は、道北地区で一番多くの会衆が集う旭川六条教会に出掛けることになっていた。
当日の移動では何かトラブルがあってはいけないと思い、余裕をもって前日に旭川入りすることにしたのだが、稚内教会に入れ替わりでお出でになった、六条教会の西岡昌一郎先生との打合せの際に、とてもよいヒントとなる言葉が与えられた。
西岡先生、こう仰ったのだ。とても助けられた、と思う。
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「わたし、せっかく稚内に行くのだから、早めに出掛けてサロベツ原野に寄りたいなぁと考えています。それから温泉も・・・」と。
そう。
自分で忘れているわけではないのだが、ハッキリとこういう言葉を先輩の口から聞けたことは、まっこと有り難いことだった。
就任式の時に、北海教区総会議長の久世そらち牧師が「北海教区の牧師たるもの、大いに遊ぶことを大切にするように」という趣旨の挨拶の言葉を下さったのだが、あらためて、ちょっとした遊び心をもっての伝道は大事だなぁ、と思い直すことが出来た。
西岡先生。小樽の教会、そして、旭川とかれこれ30年近く北海道で仕えておられるはず。北海道での牧会が長い先輩の、ごくごく自然な姿勢に触れられて感謝している。
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わたしはと言うと、往きは少しばかり遠回りではあるけれど、日本海側のオロロン街道を通り、留萌経由で旭川入りすることにした。
昨年の留萌宮園伝道所に一泊しての交換講壇の事なども想い起こしつつ、日本海の遙かなる水平線を見ながらのドライブとなった。
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週に一度出掛けていた、稚内北星学園大学の「キリスト教概論」の授業も最終日を迎えた。
テストはせずに、レポートを提出してもらうのだけど、昨年までの問題とは違う内容にしてみた。おおむね以下が今年のキリスト教概論の問題である。
もっとも、出席点を半分くらいは加味することを最初から伝えているのだけど。
【 課 題 】
2014年度の「キリスト教概論」の講義で、講師の森が全15回の講義を通じて受講者に提示し、共に考え、伝えようとしたことで、あなた自身が気付きを与えられ、受けとめ、あなたのこれから先の人生(学業、社会人、家庭人、地域に生きる者として)で大切にしたいと思うことはどのようなことか。
それはまた、キリスト教概論を受講して良かったと感じることと考えても構わない。論じる上で、そう考える理由についても記しなさい。
※論じる際に、授業で配布した、あらゆる資料、絵画・本・讃美歌など自由に用いて構わない。ただし、引用時はそれを明記すること。
■レポート課題提出時の約束事項
【字 数】400字~2000字以内。
【書 式】課題はWordで作成し、LMS上に設定した窓口へ提出すること。名前、学籍番号を忘れずに付けること。
【その他】
(1)独自のタイトルを付けて論じること。
(2)「はじめに」、「本論」、「結論」等の形で段落分けすること。
(4)字数を最後に明記すること(空白も含めて)。
このように落ち着くまで3年掛かった。
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最近の大学では、授業内容や講師に対する学生からの評価が学期の最後に行われる。
最終の授業の日の冒頭の10分程で書き込むアンケートのような用紙があり、学生が回収。そのまま、講師の手を経ずに学生課の担当に届けられる、担当の方が即日分析し、わたしの元に手渡されるのだ。
内容の一部をご紹介しよう。
〇第7番目【熱意の感じられる授業だったか】
これに対して、【強くそう思う 70% 、そう思う 17%】との回答があったことは素直に嬉しいことだ。
〇第10番の【授業全体についてよく理解できた】
この問いへの回答は【強くそう思う35%、そう思う22%、どちらとも言えない43%】だった。
そうなのだ。よく分かる授業ではなかった、ということのようだ。まだまだ、努力が必要。精進したいと思う。
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キリスト教概論の授業では、毎回、最後の10分に、出席しての感想や、わたしからの具体的な問い掛けへの思いを記してもらう時間がある。
テストではないけれど、小さな紙を配布し、心に残ったことを記してもらうのだ。
ある時、少し休みがちだったひとりの学生はこう記してくれた。
【相変わらず他の授業とは全く違った雰囲気が出ていた。また、かなり来ていなかったのに、次回からは休まないでという言葉に心が救われた】
後日、「T君が記してくれたあの言葉の意味はどういう感じなの?」と尋ねた。
すると、「先生。それは良い意味なんです。他の先生の授業とは違う、こう、何て言うか・・・・」と語ってくれた。
「全く違った雰囲気」
それは本当に嬉しい応答だった。
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あともう一人。
最後のちいさなペーパーにこのように添えてくれた学生さんが居た。
【キリスト教の幼稚園では神父さまとよくお話をしていた。私が話すのをだまって聴いてくれて、そのあと話をしてくれる。その時だけは無になれた。この講義でも、先生の話を聴いている間だけは無になれた。すくわれた。ありがとうございました】
わたしは、自分の足らないことが多いことを自覚するが、こちらもまた、あなたのひと言に救われたのです。
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最終講義の日、その日を含めて(わずか)〇度目の出席となったW君の姿があった。わたしはずーっと彼が来るのを待っていた。
学期始めの『講義概要・シラバス』に「出席回数も重んじて評価します」という旨を記していたので、簡単に「あなたにも単位を約束するよ」等とは言えない。
講義の後、誰もいなくなった教室の片隅に座って、話を聴くことにした。
後志(しりべし)地区方面出身のW君。ある福祉施設で夜勤のアルバイトをしていて、一限の授業は厳しかった、とのこと。
以前の講義の時にも聞いていたのだが、わたしと同じ珈琲好きだともあらためて確認したので、近く、教会で「一杯」やりながらの補講を計画している。
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次号をお届けする頃は、もう秋風が吹く頃かも知れない。
油断していると、夏があっという間に駈け抜けていこうとしている、そんな稚内の今なのだ。end
2014年
7月
22日
火
雑魚と書いて「ざこ」と読む。
わたしの亡き姉の中学校の同級生には間違いなく、「雑魚くん」という方が居たはず。
姉は大分県大分市内のある中学時代、本当に楽しげに過ごしていて、家に帰ってくると、「雑魚くんが・・・」と毎日のように話していた。
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「雑魚」の意味は、うんちくが相当に深いと言われる、『新明解国語辞典』のPC版によるとこんな説明がある。
(A)(いろいろの)小ざかな。
(B)(名の知れ渡った)大物に対して、取るに足りない小物。
ちなみに、わたしの好きな明鏡国語辞典 第二版では、
①いろいろな種類の小ざかな。また、小さい魚。じゃこ。
②とるに足らないもの。小物。
とある。
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見出しを書いてから、少し申し訳ないかな、等と思うのだが、日曜日の夜、道北地区の牧師たち、男5人が狭い部屋に「雑魚寝」した。
場所は名寄の小さな森の中にある道北クリスチャンセンターの居間。
年配の女性の先生は、お隣で独りお休み。もう一人の先生は敷地内のご自宅で休まれた。他に二人の男性牧師は所用で欠席。
道北地区の交換講壇のあと、敷き布団にシーツを掛け、布団一枚で雑魚寝。カーペットから外れた所にひとり。わたしは流しまで数十センチの所に布団を敷いた。
枕だけは、いつも車に放り込んである古くなったmy枕を使うが。
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午前0時前、ある先輩牧師が、「わたし、二階で寝るかな」と言ったのに明確にストップをかけたのは、一番若手の、チャーリーこと、興部教会の伊藤大道牧師だった。
「共同生活のいいところじゃないですか」みたいなことを彼は口にして、5人は雑魚寝する覚悟を決めたのだが、何だかとてもいいことだなぁと思うのだ。
あれやこれやと近況を語り合い、時に脇道にそれる話をする。バーベキューの時に炊きすぎたお米をオニギリにしてほおばる者も居たり、気ままな時間。
だが、このくだけた親密さ加減は得がたいものだ、とつくづく思う。
そして雑魚寝。
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翌朝。
チャーリーは例のごとく、せっせと炊事場に立って食事の準備を始める。
昨晩、買い込みすぎた焼き肉ともやしが炒め物となり、二皿が小さなテーブルに置かれる。
何も入っていない、にぎりめしがお皿に盛られている。昨晩のうちに握っていたらしい。
感謝の祈りに心を合わせて、「いただきます」をする。
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9時からは、各教会を訪問しての報告他の分かち合いがなされ、メインは、カナダ合同教会で一年間の研修を積んできた、道北センター主事で牧師の、藤吉求理子(くりこ)さんによる、パワーポイントを駆使しての報告を聞く時間だった。
昨晩大いに食べ、少し飲み、笑って、語らった牧師たち。
それぞれの関心事を藤吉牧師に投げかけながら、互いの理解を深めて行く。
外に出て学んできたということは、道北の教会を外から客観的に見る目を養ってきた、ということで、藤吉牧師からは様々な気付きを持っていることがびんびん伝わって来る。そして同時に、なにがしかの力強さを身にまとっていることも分かる。
我らは、道北地区の教会形成について、一所懸命に考えながら報告を聞くのだった。
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実はこのこと。ありそうでないことではないか、と思う。
わたし、幸せな事だなぁ、とつくづく感じる。
藤吉牧師も別のことを切っ掛けにお話していたのだが、教会員が二人か三人で会堂が建つなんてことがあるのか、とカナダで道北地区のことを紹介しながら何度も質問されたという。
その教会とは、最近、礼拝出席者が10名を超えているという美馬牛福音伝道所のことだ。わたしが稚内にやって来る前に、会堂は立ち上がった。ほぼ、何にもないところから。
よその教会のことについてこれほど一緒に考え、悩み、力を合わせる地区の牧師たち(勿論、場面が違えば信徒の方々)って、日本の各地でも、在りそうでないと思う。
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昼食を外でみんなでとったあと、わたしは、秋の教会創立記念礼拝にお招きする藤吉牧師と相談の時をもって、名寄を後にした。
3時間弱の道、必ず眠くなる道なのだが、何かしら満たされた気分で稚内に向かっている自分に気付く。
雑魚寝する牧師たちが居るからだけではないだろうな、と思う。
土曜日の夜は、久しぶりにゆっくりと話を、ということで、ある人に旭川の鰻屋さんの名店に連れて行ってもらった。これがまた気の利いた鰻屋さんで、「ひつまぶし」の正しい?頂き方をしっかりとお教え下さった。
始めは山椒だけ。次はワサビで、最後は全部そうしなくてもいいからお茶漬けで、と。
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六条教会の方たちとの距離も、ある程度大きな教会なのに、決して遠くなかった。
これもまた振り返って見れば大きな恵みだと思わずには居れない。
敬愛する西岡牧師の整えられた牧会の一端に触れる毎に教えられる事が多いが、それだけでなく、3年目の道北地区暮らしは、いつの間にか、じわーーっと深まってきているのだな、と気付いた。
幾人もの方々と、既に、北海教区の年頭修養会でご一緒した方が居られた。いやいや準備の段階で共に悩んだ方々も。
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東京一極集中、あるいは、札幌一極集中。
そこにはまた、そこでこその苦悩があることを思う。
都会の教会なのに、小さなぬくもりのある下町の教会で育てられたわたしは、そのいずれも知っている、ということだ。本当によい経験をさせていただきながら歩んで来たのだなぁ、と思う。
信頼する同窓の牧師は、都心の小さな教会で語ってきたメッセージ集を出版した。「心が擦り切れそうになった人々に、一杯の水を差し出す教会(オアシス)でありたい」との帯を付けた本にして。都会でもガンバッテほしい。
わたしは、1つ所に何十年ということはない歩みだったが、何も卑下することもない。それだからこその言葉が与えられ、関係が続き、生かされているのだなぁと分かってきた。
雑魚は雑魚で胸を張ればよいのだ。
なくてはならないものはそう多くはない。そうボンヤリと思う今に感謝。end
2014年
7月
19日
土
53年前、稚内教会から生まれた稚内ひかり幼稚園。
園児たちは学期末になると、各学年ごとに教会の礼拝堂にやって来て、礼拝をする。
わたしは、お祈りとお話を担当することになっている。
一学期終了間近とななり、年少、年中、年長の順で教会に来てくれた。
「ぼくし せんせーぃ」と言いながら彼らはやって来る。
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今回は年長さんとの礼拝が最後だった。
年少さんや年中さんに較べると、お話の内容を、物語性ゆたかに話すように努力してみた。
運動会を終えてたくましさを増している彼らを見ると、3歳、4歳のこどもたちに較べれば、集中して聴く力が大きいというのがハッキリとわかる。
ヨシッと思った。何かのスイッチが入ったのだ。
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「きょうはモーセさんのお話をするよーっ」と始めた。
モーセに率いられてエジプトから脱出の旅を始めたものの、食べ物・飲み物の不平不満が聞こえて来てモーセは悩み、さらに、目の前に、葦の海が広がり、後ろからはエジプト軍が戦車で追いかけてくる。
絶体絶命のピンチの時に、モーセは杖を持って、主に命じられた通りに・・・と、臨場感が少しでもあるようにお話しする努力をしてみた。
時々、オーバーアクション気味に、「われらーを みーちーびーく」と行進(足を高く上げる仕草を)しながら歌ったりして。
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メッセージを終えて、脇に退こうとした、とその時、わたしとしては思いがけないことが起こった。
それは拍手だった。
前方に居た、わたしの方から見れば左側の子どもたちからの限定的な、全員では無い。
でも、数人のしっかりとした拍手だった。
純粋な子どもたちの拍手。それは、先生から促されてのものでもなく、ゴクゴク自然に起こったもの。
だから、なおのこと嬉しかった。
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30年くらい前のこと、わたしは時々、母教会の礼拝で、拍手をしたくなる衝動を覚えることがあった。
それは、牧師の説教に対してのものではなかった。聖歌隊の賛美の美しさに感動した瞬間だった。
都会にある大きな規模の教会で300人程の礼拝出席者がいらしたのだが、拍手が起こることは一度もなかった。
だから、そういうものだ、と自分に言い聞かせてはいたが、実のところわたしは拍手をしたかった。
素晴らしい!と。罪人のわたしたち人間の賛美が、なんでこんなに美しいのだろうと不思議に思ったものだ。
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年長さんの君たち。
ありがとうね。
思い出すとさ、ボクはなんか嬉しくなるんだよなぁ。
人間ってそういうものなんだな、と思うよ。
ありがと。
あの拍手は、たしかに僕を支えてくれる。end
2014年
7月
15日
火
稚内では真夏を思わせる暑さの日だった。たぶん26度くらいか(笑)
午前中は年長さんを礼拝堂に迎えての礼拝。
その後は、頭を使うお仕事はとても出来そうになく、幼稚園に出向き、せっせと印刷屋さんのように、封筒やら利尻昆布バザーのあれこれの印刷に励んだ。
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教会での仕事を終え、牧師館に戻ろうと外に出ると青空が広がっている。
こりゃ、行かないともったいない。そう思った。
妻に食事の時間を聞き、パソコンで日没の時間を確認すると、19時19分だ。どんぴしゃ。
ということで、出掛けて来たのは、車で7分の「夕陽丘パーキング」。
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撮影したときにはここまできれいだと気付かなかった。
真ん中に写っているバイクは、岡山からのBMWのバイク。定年退職を迎え、一ヶ月前に購入したという、おじさんのもの。
おじさん「若者から、夕陽丘で写真を撮ってきてと頼まれてね。ここまで来るのに、風が強くて、高速を走るのが恐かった」と話してくれた。
他にも、カメラを手にしている旅人が数人。空気を思いっきり吸う人もいる。
この日の日本海の夕暮れの太陽。
数分後に雲の中に隠れてしまうとは、撮影したその時には気付かなかったのでホントにラッキー。
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遅れて来た、茨城県水戸からのご夫妻。これまた定年後の旅のように見受けた。
「もう沈んだんですかねぇ」と奥さんが言われるので、「さっきまでこんな空でしたよ」とデジタルカメラのデータを、さかのぼってお見せした。
「ほーら、お父さん、ご飯なんて食べてる場合じゃなかったぁー」と笑いが広がった。
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というわけで、きょうはこの写真をどーんとここにアップ。
疲れているあなた。すこしだけ、癒されるでしょ。end
〇下は、ほぼ同じ時刻、同じ場所からの利尻富士。一日、おつかれさまでした。
2014年
7月
15日
火
〇以下、神学校の器楽の先生でもあり、不思議な交流が続いている木田みな子先生の来稚の折の記録を抜粋する。
先だって、日記形式にした来稚感謝のお便りと小アルバムをセットにしてお送りしたものから、抜粋・編集した。
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(1)はじめに
みな子先生 今日は年に一度の七夕です。みな子先生とお目に掛かれたのは、七夕よりも、もっとお久し振りのことだったのに、そうとは思えない、二泊三日のあっという間のひとときでした。ほんとうにありがとうございました。
みな子先生の来稚から早一週間が過ぎ、明日から、夕陽丘パーキングから見渡した、あの日本海で、利尻昆布漁が始まります。
以下、ご一緒した三日間を、少しまとめてみます。わたしの記憶の不確かな所もあるかも知れませんが、ご愛敬です。
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(2)空港に到着
6月28日(金)全日空573便は定刻に羽田を13時過ぎに離陸。わたしは15時をメドに空港に向かいました。飛行機は予定通り15時に着陸。到着ゲートに姿を見せられたみな子先生、数日来の風邪か鼻炎かで、マスクをしておられました。
発熱は?と心配しましたが、黙っていました。
季節によっては、白鳥たちの飛来場所になる、大沼を左に見ながら教会に向かいました。この季節は、白鳥ゼロだったようです。
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(3)稚内教会 礼拝堂
明日の奏楽に向けて、どのようなオルガンが使われているか、それをまずは確認しようということで、20分程で教会に到着。
礼拝堂にご案内して目に入ったのは、みな子先生がほとんど弾かれたことのない、イタリアのデルマルコ社のオルガンでした。
1階の畳の部屋に置かれているヤマハのリードオルガンを見せてしまうと「森先生、こちらを何とか礼拝堂に上げられないかしら」と言われるのを恐れて(笑)おりました。
初めての礼拝堂。一体どのような音色が響くのか分からないのですから、ご苦労をおかけしたことと思います。
わたしも少し音を出したりしました。が、翌日の礼拝のアーメン三唱を耳にするまで、みな子先生が求めて居られる音に思い巡らすことは十分できませんでした。あの音色だったのですね。
これは森さん向きのオルガンだわ、と仰っていました。さて、その意味はワハハ。分かってますよ。でも、僕も少しおとなになりたいなぁ。もうすぐ54歳ですから。
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(4)珈琲ブレーク
休憩をしました。
わたしの楽しみの珈琲を豆を挽きますから、ということをお伝えして、珈琲を煎れますからとお伝えして一杯召し上がって頂きました。キリマンジャロなのに、濃かったですね。お湯を入れて薄めました。
ふと時計を見ると、18時半位でした。この日、19時半頃が日没だろうと思っていましたので、お話し途中ですが・・・と切り出して、「今から、30分お稽古して下さい。夕陽丘パーキンという所で、もしかすると、利尻富士と日没をご覧いただけるかも・・」とお伝えしました。
では、ということで、しばらくの練習。そして、パーキングに向かう前に、明日の奏楽の楽譜のコピーやらで少しバタバタいたしました。
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(5)鮨を食べよう
夕食は、わたしが稚内教会に招聘されるその時に、お見合い説教の前日に食事をした、お寿司屋さんに向かいました。
カウンターに座りましたね。
二人の職人さんが忙しそうににぎり寿司をどんどん握る。特に、年配の職人さんの手捌きが、ちょうどみな子先生の目には全部入って来たようで、そのリズム感、職人技を喜んで居られました。
お姉さまのことを伺ったのはこの時だったでしょうか。京都から東京への転居がお子さんたちの頼もしい行動もあって、無事に済んだばかりだったと知りました。
「こういう所、わたくし、どうしたらいいのか分からないの」と仰っていました。お品書きを見て、竹だったでしょうか、上寿司だったか、20分ほど待っていると、しゃれたお皿に一列に並んだお寿司が出てきました。
「地元の魚は?」 何てことを聞いたりしながら、頂きました。みな子先生、イクラから食べ始めましたね。イカとまぐろだったかな。わたしに回って来ました。美味しかった。
お茶もよかった。みな子先生の右側に座る必要があることもその時は、明確には分かりませんでした。あの日の自転車事故以来の・・・ということを知ったのは、教会でのお昼ご飯の時のことでした。
実はお寿司屋さんにご案内したその時、わたしのお財布には千円札が4枚しか入っていなくて・・・カードが使えなったらどうしようしら、なんて心配しましたが。ごちそうさまでした。
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(6)おやすみなさい、そして牧師館で
ホテルに向かい、お嬢さんの電話番号をメモしたりしました。明日の日曜日は、午前8時20分に迎えにまいります、とお伝えすると、8時20分は何かのご縁のある時間だったようで、大丈夫、忘れないわ!と仰いました。
そして、エレベーターホールに向かいました。おやすみなさい。
わたくし、翌日の、『荒れ野の声に何を聴く』の説教が少しもまとまっておらず、牧師館で妻にしばしの報告をした後、一休み。それから、デスクに向かい直しました。
説教原稿の作成記録をパソコンで見ると、6月29日(日)午前2時31分とありますので、そこまで頑張ったのでしょう。
でも、どのタイミングでしたか、聖霊によって語るべきことがハッキリと見えました。
わたしたちは石ころの自覚を持っていることが大切。聖霊と火による洗礼=裁きを受けるときも、石ころは燃え尽きることがないのだから、と福音が聞こえて来た。
洗礼者ヨハネ彼は預言者です。わたしにとって、ヨハネは献一先生に重なる部分もあります。彼は祭司の家庭出身なのに、その道を自ら閉ざして、荒れ野にすすんだ人だった・・・・。
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(7)日曜日の朝
翌朝、時間通りにホテルへまいりました。みな子先生、既にホテルの入口に立ってお待ちになっていました。夜明けが早い分、朝方早く目が覚めたと仰っていましたね。たぶん、三時過ぎでしょうか。
車で5キロ弱の所に教会はありますから、歩いては無理なのですよ、とお伝えしたりもしました。
教会に向かう途中、稚内南小学校では、ひかり幼稚園の運動会が行われる日でしたのでお教えしました。
****
(8)利尻富士とヌンク・ディミティス
教会の前まで車は来たのですがそこを通り過ぎて、昨夕に訪れた夕陽丘パーキングへ向かいました。
5分も進んで行くと、見えてきました利尻富士。きのうとは違って、見事な利尻富士が見えました。ヨカッタ。礼文島もハッキリ見えましたね。
海を見ながら、沖縄の海のことをお話しされていました。この日本海で昆布漁があるのですとお伝えしたりしました。幾枚もの写真を撮りましたが、とっても素敵だなと思うみな子先生の表情が記録されています。
小鳥たちのさえずりもハッキリと聞こえました。空気も澄んでいたし。しあわせな気分が大きくなりました。
献一先生が召される前に口にして居られたみ言葉、ヌンク・ディミティス「今こそわたしは・・・の気分だわ」(ルカによる福音書2章29節以下)とみな子先生。
美しい時でした。
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(9)息ができる礼拝 聖霊が降る
礼拝が始まる10分前。
みな子先生は、礼拝堂の最前列で、呼吸を整えていたのでしょうか。足の裏から息を吸うという感覚を研ぎ澄ませていたのか。
聖霊よ来てください、の祈りでしたか。礼拝堂の奥の椅子に座って司会の永井悦子さんと三人で祈りました。
幾つかの、ほんとうに大切な発見が与えられた礼拝でした。
もちろん、みな子先生をお迎えしたからです。これまでもみな子先生の弾かれる讃美歌の伴奏に触れていたわたしですが、今回ほど、こころを澄まし、耳を澄まし、さまざまに思い巡らしていた礼拝は、実は、ありませんでした。
息ができる礼拝。
神さまの風が吹き抜ける礼拝を明確に意識できるオルガンの音色でした。
ゆっくりと弾くということとは違う。会衆の呼吸を最大に引き出してくださる音色が礼拝堂に響きました。
出席者は、それぞれにどんなことを感じたでしょうか。それは分かりません。
とにもかくにも、わたしにとって忘れられない礼拝です。こころに深くのこる音色でした。余韻があるのです。
そう言えば、子どもメッセージの時間には、1995年頃のものだったでしょうか、教団出版局の季刊誌『礼拝と音楽』にみな子先生がエッセーを記されていたので、みなさんへのみな子先生のご紹介を兼ねて、それを読ませて頂きました。
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(10)ピアニシモの力強さの不思議
祝祷のあとのみな子先生の後奏は衝撃でした。
実はあの時、(Ustreamという録画配信を見て確認もしましたが)、わたしは、祝祷後に、みな子先生のオルガンが始まらないので、先生の方心配になってを見たのです。
「あれ、打ち合わせしたのに、どうしたのだろう」と思って。
と、その瞬間にみな子先生の、ピアニシモのアーメン三唱が始まりました。
鳴るとか、響くというのでもない。
息ですね、あれこそ。
みな子先生は、稚内教会の礼拝堂にいらして、あの音に象徴される息が会堂に吹き抜けることを祈ってくださったのだ、とすとんと腑に落ちました。感謝です。
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(11)海鮮丼ほかの愛餐
お昼ご飯も豊かなひとときとなりました。
旅人のOさんご夫妻が、「こんなご馳走を食べる教会は知らない」とお話ししておられました。日本一の海鮮丼というのでしょうか。
ホタテ、しめさば、サーモン、イクラ、キュウリ、錦糸卵が宇美しく盛られ、お吸い物、エゾカンゾウのお浸しも一緒の酢の物、帆立貝のバター焼き。
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(12)お嬢さんからの電話
思いがけないアクシデントが起こりました。
午後、一日遅れで稚内においでになる予定のいずみさんからわたしの携帯へ電話。
確か12時半頃です。それは予定していた時刻よりも早かった。あれっ?と思いながらいずみさんに聞きました。
「いずみさん、今、どこから?」
「それが、乗り遅れたんですー」
「えーーーーっ!」
前日夜10時過ぎ、みな子先生とお別れしたあと、いずみさんと打合せを電話でしたときに、冗談で「明日、乗り遅れないようにね」と伝えようかと思って、それはあんまり失礼かと思ってよしたことを後悔しました。
夏の観光シーズンゆえ、午後の二便の空席もなかったようです。とにかく、いずみさんとはまたもやお目にかかれないままとなってしまいました。
いずみさんがメールに記していた言葉。
「疲れすぎている自分に気がつきました」だったかなぁ。品川駅でのお買い物で油断して、羽田に向かっている途中に気がついたのでしょうねぇ。
もしや、やばい。間に合わないよーーーっ!と。モノレールか京浜急行電鉄か。降りてからどれ程猛烈に走られたことでしょうか。稚内行きの搭乗口。おそらく羽田空港のすごーく外れにあったはず。
いつの日か、ゆっくりとお目にかかれるのを楽しみにしております。でも、これでまたお互いに忘れられない人となってしまったような気もいたします。
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(13)宗谷丘陵・宗谷岬へ
その後、千歳経由で名古屋に戻る、礼拝をご一緒した榎本兄と稚内駅近くで待ち合わせて、宗谷岬に向かいました。彼はレンタサイクルを駅の近くに帰したのです。
稚内駅までは、石川兄がご一緒でした。彼の手作りのクラフト作品をもしかしてプレゼントしてもらったのでしたか。
宗谷丘陵に向かう途中、宗谷湾の海辺の空き地には、キタキツネが居りました。写真は残念ながらありませんが、確かに目撃。その後、宗谷丘陵に上って行きました。
三脚を使っての、榎本兄とわたしとみな子先生との写真もなかなかいいですね。最高のお天気でした。サハリン・樺太が僕らには見えたのですが・・・・。黒牛が牧草地を走っている姿も見えました。
再び車に乗り込んで、宗谷岬に向かって丘を降りて行くのですが、その途中に、蝦夷鹿(エゾシカ)の群れが車の前を横断。二家族くらいだったかも知れません。角が立派に生えているのが二頭いました。
日本最北端の地 宗谷岬に到着。三角のモニュメントが建つあの岬です。海カモメでしたか、すぐ近くに休んでいました。最北の海をみな子先生しばらく楽しんで居られました。
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(14)榎本兄を空港へ
その後、わたしたち三人。稚内空港に向かいました。時間は午後4時頃です。榎本兄が明日からのお仕事に戻るために、名古屋に向けて、千歳経由でお別れでした。
みな子先生と南山教会の不思議な結び付きについても伺いました。先生、早めに一度、教会をお訪ねになってはいかがでしょう。神さまは不思議な形で備えをなさるものです。
榎本兄とお別れしたみな子先生とわたし。二泊目の予約をしていた、ホテル美雪に向かいました。
この頃のわたくし。運転しながら猛烈な眠気に襲われていました。眠ってしまうことはなかったものの、ホテル美雪に到着した時にわたしは申しました。
「みな子先生、少し、休みましょう。19時にロシア料理のお店に予約していますから、18時50分に迎えに参ります」と。
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(15)ノシャップ岬の日没とロシア料理
牧師館に戻ったわたくし、30分程眠りこけました。みな子先生も少しお休みになれた、と言われていたような気がします。
午後7時前にホテル美雪に向かいました。途中で、予定変更を決断(オーバーですが)。ロシア料理店のペチカに途中立ち寄って、19時からの予約を変更し、20時前にお願いしました。
何で予定の時間を変えたのか。
そうです、あまりに空が晴れていて、日本海に沈む太陽をこれならばバッチリ見ることが出来るはずと確信したのです。それで、前日は車で通り過ぎたノシャップ岬に向かうことにしました。
夕焼けを見ましょう!と。
100点満点とはいかなかったけれど、それでも、美しい夕焼けを見ること出来ました。
ロシア料理専門店のペチカでは、ベーシックなコースで注文。しかし、もうほんとうに十分でしたね。
ロシア風のサラダ、水餃子、ピロシキ、串刺しの豚肉、ボルシチ。あと、ロシア風のお茶が付いていたと思います。
ここでも、みな子先生にご馳走して頂いたのですが、ほんとうにおいしかった。どれも初めての味なのに全く違和感なし。
あのお料理は、完全なロシア人シェフのレシピ通りに作られたもので、日本人の好みに味付けられていたのではない、とお店の人に聞いてビックリ。
ペチカでは、ロシア民謡と踊りのビデオも楽しみましたよ。
サハリンのルースキー・テーレムというグループなのですが、フォークダンス調の踊り、こころ和む音楽を聴きながら夜は更けていきました。午後10時過ぎまで話が弾み、お店の方も快く見守ってくれました。
店内には、外国からの旅行者の姿もありました。半分はそうでした。ロシア人もいましたし、若い中国系の青年達のグループも。
10時半過ぎ、翌日の約束をしてお別れしました。
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(16)最終日の朝
稚内の最終日。ホテル美雪のフロントで、みな子先生は若いホテルマンとお話ししていました。
オルガンのことに興味を持ってくれた彼との会話も楽しいものでした。
幾つかの改善点の助言をされてホテルを後にしました。ゴミ箱を置く位置の改善やタオルだったかしら。
さて、その後に向かったのは稚内公園でした。グルグルと坂道を車で上りました。稚内公園には稚内教会の墓地もあります。そこを左に見ながらさらに上に登りました。
開基100年記念塔がそこにはありました。記念塔に上る前に、小さな北国のお花が植えられているのを観察。鳥たちのさえずりが響き渡り、みな子先生とても喜んで下さった。
公園からは稚内の港、防波ドーム、フェリーなどもよく見渡せました。
また、博物館のような施設がありますからご案内しました。北海道の歴史、稚内の歴史の一端が見えました。間宮林蔵の足跡も。
さらに、記念塔の最上階の展望台に参りました。
稚内を一望できるビューポイントの一つです。微かに利尻富士も見えたと思います。カメラを忘れていたので、ここでの写真はありません。残念。
売店でみな子先生は、カードを購入しておられました。わたしは、宗谷の塩をお渡ししました。お味はいかがでしょう。
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(17)おわりに
二泊三日の稚内を振り返りました。いかがですか? 何かを思い出されることもあるかも知れないですね。
あらためてのお便りはなしにして、これがこの度の旅のさいごの贈り物?です。
みな子先生からの贈り物の方がたくさんありました。あの日の礼拝から、わたしも、聖霊がもっと自由に働く、そのような説教が出来たら、礼拝を献げられたら、と思うようになりました。
わたしにとって、一つの転機になるかも知れません。忘れられないみな子先生の来稚となりました。心から感謝しています。
伝道の応援にお出でくださったみな子先生。それだけでなく、たいせつな何かをのこしてくださいました。
みな子先生、まだまだ何か、わたしたちの物語は備えられているかも知れない。そんな予感もまたしているこの頃です。ほんとうにありがとうございました!
稚内教会 牧師 森 言一郎
2014年7月7日 七夕の夜に
2014年
7月
14日
月
※本号、ながーいです。覚悟のある方だけ、どうぞお試しを(笑)自動車にまつわるお話からのあれこれです。
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先週、近くのスーパーに立ち寄った。小さいけれど書籍も置いてあるお店だ。少し立ち読みしていると、目に入ってきた一冊があった。
『モーターファン別冊 昭和40年代日本車のすべて』(株 三栄書房)だ。
定価861円+税8%。他のどなたかが立ち読みした形跡ありだった。でも、これを逃したら、もう再びあの頃に戻ることは出来ない、と思って購入。
つい最近、長年、出版社から発行の度に送ってもらっていたキリスト教関連の月刊誌を取りやめたわたしにとって、数百円も今となっては結構大きい。
が、ヤッパリこれは座右の書となりそうな一冊。ありがとう、編集者さん。あなたの狙いにドンピシャのわたしがここに居ります。
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昭和35年11月生まれのわたしにとっての昭和40年代とは、幼稚園年長から中学2年までの10年間。
昔は、大分県北海部郡と言われていた、大分市の大在、浜、あるいは、横塚と呼ばれる地域で暮らしていた頃だ。
区画整理がその頃からゆっくりと始まったのだが、それまでは、本当に穏やかな田舎の部落そのものだった。
夏になるといとこたちがおばさんに連れられてやって来る。仕事の休みが取れたおじさんが遅れて合流する。
みんなで一緒に海辺まで麦わら帽子を被り、海水パンツ一丁、マント代わりにバスタオルをはおり、海水パンツ一丁で500メートルほどのあぜ道を海辺に向かう。メダカやふなが泳いでいる水路が両脇にあった。
松林を抜けると、引いていると本当に遠浅の海辺が広がっていた。遠く別府方面には鶴見岳。四国の佐田岬が見えることもあった。トビウオがぴょーんと飛び交う海だった。
今は埋め立てられて面影もないが。
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わが家には自動車がなかった。
だから、親戚の、紀男おじさんが、トヨタパブリカ800の中古車に乗ってやって来て、助手席に乗せてもらい、関サバで有名になった佐賀関方面につれて行ってもらうとき、お目々に星が輝き、興奮状態だったのを覚えている。
かといって、父に、「なぜ、お父ちゃんは免許とらんの? ぼくの家にもクルマが欲しい」と言った覚えはない。
というか、そういう頭が回らなかった。
わが家には車が無いのが当たり前。そんでもって、大分市の中心地に向かうには、国鉄の大在駅まで自転車で10分、蒸気機関車に乗って(D51が当たり前に走っていた、というか電化されていないのが日豊本線だった)、機関車の煙を吸いながら大在駅から大分駅に向かったものだ。30分程の乗車で到着。
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だから、自動車は憧れであり、片道2キロ半の道を大在小学校に通う時に、いつも目に入る、あの家、この家、あるいは、学校の先生方の駐車場に見るクルマたちは、わたしの心の中のアルバムに様々に記録され続けていった。
何しろ多感で純朴な5歳から14歳の頃のことだ。本当にいろいろな車がパッチリと心に残っている。
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その、心の中にあった憧れの車たちと、まさか、こんな形で再会できるなんて。本当に嬉しい。
表紙と裏表紙を飾る日産チェリー。
今見てもカッコいいと感じてしまうわたしが居る。
編集方針が泣かせる。
売れたクルマではなく、愛されたクルマをラインアップ。昭和という時代は、実直であり汗くさく、人懐っこく、あったかい。そんな時代もありました。
ここで紹介する昭和のクルマたちは、主にスター車種ばかりを揃えるのではなく、根強いファンを持った車たちを集めています。
たとえ王道ではなかったとしても、愚直に開発されてきたまぎれもない「日本車」です。いわば、気がつけば隣りにいた隠れた名車たちなのです。
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今のように、PCがあるわけでもないし、時々買えもしないのに自動車のカタログを取り寄せるのだけれど、こども時代に、『カタログ』なるものが存在すること自体、わたしは知らなかった。
大分合同新聞か朝日新聞の広告欄にたまたま目に留まった自動車の広告か、チラシなんてあったかどうか不明だが、それがわたしの知識の元の一切だった。
あとは、小学4年生の頃に買ってもらった、『世界の名車』という一冊の本がわたしのクルマworldの全てだったのだ。
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心の中にしか残って居らず、この何十年もその姿を見なかった、クルマたち。
家を出て、1キロ程いくと、三菱系の自動車整備工場があった。あの工場のおじさんの車だったのか。【三菱コルト800】の懐かしい姿が記録されている。たぶん同じ場所に並んでいたのが【三菱・ミニカ スキッパー】だ。
ひとり、トボトボと田んぼの真ん中の道(当時、舗装がようやく始まった。馬も通ってました、大きな馬糞を落として)を歩いているときに、ボンネットから煙を盛大に吹き出していたクルマも出てくる。
それは、【日産ダットサン・サニー 1000】だ。確かちまたでは欠陥車という言い方がされていたような気もする。初代サニーは昭和41年4月にデビューとある。
二十歳の頃、東京都の府中市に暮らして居たわたし。どうしても欲しくて買った車は十数万円だったか。【ホンダN360】だった。とあるプロドライバーが丁寧に乗り続けていた白いN360。わけもわからず、東名高速を調子に乗ってぶっ飛ばして、愛知の叔父叔母の家に行った。クリーニング屋さんが言ったそうだ。
「若いってスゴいねぇ」と。今思うに、こんな危なっかしい車でよくもまぁと呆れていたのだろう。
【スズキフロンテSSS】はオレンジ色の車体が写っていて相変わらずカッコいい。Sが三つ着いているだけで胸が躍る。
【マツダ・ファミリア ロータリークーペ】。この車は、大在小学校の給食室の前にいつも止まっていて、指をくわえてながめていた。コンソールボックスの3連メーターを見ただけで興奮していた。
母がお世話になった開業医の三宅先生が乗っていたのは、白色の【トヨタ・パブリカ】の2代目だった。三宅先生、大きな黒いカバンにあれこれ詰め込んで、わたしが夜中に発熱すると往診に来てくださったはずだ。昭和44年3月26日発表とある。
大学時代のサッカー部の小島先輩がぶんぶん言わせて乗ってきていた【いすゞ・ベレットGTタイプR】。あるいは、マネージャーの順子さんが、(最終型だろうなと思う)【トヨタ・カリーナ】に乗って来ていたのも懐かしい。
ソニー生命で頑張っている敏也が免許を取って初めて乗って来たのが【ホンダ・シビック】の中古車だった。昭和47年に発売開始らしい。
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そうなのだ。
この一冊に記録されている車たちは、わたしが忘れそうになっていた様々な幼い頃の景色と全て重なってよみがえってくるのだった。
車とは不思議なモノで、今まで仕えて来た教会の信徒さんが乗っていた車は、今でも同型車とすれ違うと、「あっ、〇〇さんのクラウン」「〇〇さんのパジェロ」「〇〇先生のキャロル」という具合に、ほぼ完璧にその人と結び付いている。
なので、苦い想い出がある方の車とすれ違うと、今も悲しい。
妻は、彼女が中学の頃に若くして亡くなられた父親が、黄土色の【トヨタ マークⅡ】に乗っていたのを明確に覚えていて、次は、クラウンと言っていたのに亡くなったと、時に口にする。
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かつてわたしは、フランスの【Citroën XANTIA】に乗っていたことがあるのだが、故障の悩まされたにも関わらず、想い出が山ほどあるのも本当だ。
そして、その頃から、わたしは「自分が車が大好きな人間だった」ということを取り戻すことが出来始めたのだった。
性格もあるかも知れないけれど、たぶん、これからも自動車との様々な出会いや付き合いの中で、わたしは暮らしていくのだなぁと思う。
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あと何台の車に乗れるかしら、とふと思うことがある。
次は、自動ブレーキが着いていないと危ないかも知れない、なんてことを口にすることがある。燃費よりも優先は安全。いつの間にかそういう年代に入ったのだ。
自動車好きの方が居られたら、お友だちになりましょう(^_^)ノend
【追伸】
父はわたしが高校1年時に、大女優のソフィアローレンが宣伝する、ホンダのロードパルという原付自転車に出会って人生が変わった。
歩かなくて済む原付バイクにまたがる父は、直進あるのみの人で、大きな交差点は直進後降りて、方向を変えて信号が変わるのを待っていたらしい。
2014年
7月
06日
日
『こんぶ通信 5号 』『 昆布ちゃん あなたの成長祈ってます 』
稚内教会による 福音物語 その5)を以下お届けします。
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カナダ合同教会ロンドン教区のご一行6名が、道北クリスチャンセンター館長のロバート・ウイットマー牧師と圭子さんご夫妻のご案内で稚内教会にお出で下さったのは6月上旬のことでした。
お抹茶を点ててのもてなし、そして、愛餐会もひと段落した頃。わたくし、おもむろに立ち上がりました。
「最北の町稚内へようこそ。ここに皆さんへのプレゼントがあります」。
そう言って取りだしたのが稚内教会謹製・利尻昆布でした。冠雪の利尻富士や昆布漁の様子、礼文島の日没の様子が見える写真も準備しました。
ご一行の中にジェーン・ヴァン・パッター牧師が居られました。
ふと気がつくと、彼女の目がキラキラと輝き、何やらペンを取りだし、メモを始めたのです。メモを取り終えたパッター牧師。満面の笑顔と共に、good!と指をお立になったような記憶。いやいや更に、ウインクもされたのかも知れません。
「もーり-!Thank You!
あなたのそのメッセージ、
わたしのSaint David's UNITED CHURCHの
説教で使わせていただくわぁ(^_-)-☆」
という喜びのサインだったのです。
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その時のわたくし。こんなメッセージを声を張り上げて語りました。
「皆さんへの贈り物の利尻昆布。これは、棚に飾っておいても何の力も発揮いたしません。見ているだけでは、皆さんの心を癒やしてくれることもないでしょう。
昆布は小さく切り分けられ、水に浸かってはじめて本領を発揮し始めます。
洋風のお料理の味も引き立ててくれる昆布出(だ)汁(し)は昆布が水の中に入った時に染み出ます。それは小さなわたしたちが水に浸かること。すなわち【洗礼・バプテスマ】に通じる何かを思わずにはいられません」と。
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最近のことです。関東地方在住のとある先輩牧師から達筆な青インクの万年筆をお使いになったお便りが届きました。かつて、南国の田舎町の小さな教会で牧会しておられた方です。
【『信徒の友』(6月号に拙文を寄稿しました)』と『同窓会報』により、近況を知ることができ感謝です。教会が地域の方々と生きていくためにも「利尻昆布」販売に力をいれて下さい】。
胸が熱くなりました。地元の漁師さんに教えを乞うて取り組んで来て良かったと確信でき、安心いたしました。
また、お料理上手のご婦人からは電話が入りました。「利尻昆布を切らしてしまい、よその昆布を買って来ると、味の違いがすぐ分かります。利尻昆布はそれくらい美味しいです。自信をもって」と。
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わたしたち、利尻昆布を何とか当地の逸品にしようなんていう努力は、少しもいたしておりません。稚内教会がバザーとして扱い始める前から、利尻昆布は既に立派なブランド品のようなものだった、と改めて思います。
わたしたちに深い智恵があったのでもなく、研究に研究を重ねて出発したのでもありません。マーケティング担当者が礼拝出席10数名の教会に居るわけではないのです。
利尻昆布そのものが、素晴しい神さまの賜物。そして隣人となって下さっている皆さんとの出会いがイエスさまの憐れみです。
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今年の2月上旬から4月いっぱい迄、お仕事のため横浜市からお出でになった木村兄というクリスチャンが居られました。
新来者カードに「短期の滞在ですが、わたしにできることがありましたらお申しつけ下さい」と記して下さるような方です。
木村さん、3月のとある日曜日の午後、利尻昆布作業に参加し、その時の気付きを、『あしあと』という文集に投稿して下さったのです。
ご紹介します。
【バザーのための昆布作業等々に参加させていただき、稚内市内だけでなく、北海道内各地、さまざまなところに居られる兄姉とのつながりを見させていただき感謝しました。「利尻昆布バザー」の作業はパウロの天幕作業(*使徒 18:3 パウロは彼らのところに行ったが、互に同業であったので、その家に住み込んで、一緒に仕事をした。天幕造りがその職業であった。)を思わせるものがありました】
と記されました。
わたしたち、いつしか伝道者パウロに通ずる歩みを始めていたのですね。
皆さんも、稚内教会でこんぶ作業をご一緒してみませんか!
****************
雨はないはずの稚内。気象台の観測が始まって以来の雨量を、6月はじめの僅か数日で越えてしまいました。
地元の新聞に記されるまでもなく、わたくしの心の中でも、「昆布ちゃん、無事に成長できるのかしら」と心配になったものです。昆布を育てるのはミネラル豊富な海であり、お日さまだからです。
でも大丈夫。夏至を過ぎ、7月上旬の昆布漁解禁を前に青空が広がり始めました。
最北の町に生きるわたしたち。利尻昆布の成長を神さまに祈る毎日でもあります。(たぶん)続く。
2014年
7月
01日
火
みなさまへ 『 最北通信 稚内教会 牧師室便り』
2014年6月22日 №27 牧師 森 言一郎
以下、おおむね、補筆・増補なしでアップロードしますが、先に少しばかり。
文中に出てくる関田寛雄先生は知る人ぞ知る、多くの方にさまざまな励ましを下さった昭和2年・1927年生まれの牧師であり、同時に、説教学や牧会学の敬愛する先生。
わたしは、まったくタイプの違う先生方からも多くの示唆を与えられてきたものですが、関田先生の姿勢には、今も変わらず教えられてきた。
神学校の講義で、教室に入ってきて、深々と決して嫌みではなく、数人の生徒に一礼をして(夜間の学校でしたから「皆さん、こんばんは」)と挨拶して下さる先生は他には居られなかった。他の先生方が失礼な態度ということではないが、右も左もわからない我々に対して、人間として対等に向き合って下さる方なのだ。
今もお元気で、お住まいは千葉県だが、神奈川教区の巡回教師としてお働きになっている。批判する方も居られるかも知れないが、わたしにとっては掛け替えのない存在。
利尻昆布バザーでも、何かの拍子で窓口になって、持ち運んで紹介、売りさばいて下さったりと頭が下がる。川崎地区の牧師会に姿を見せて「今日はこの宣伝のためにまいりました」と挨拶して下さったらしい。
何とも、かたじけない。そしてまだまだ、お元気で、各地でのご奉仕に使えて頂きたいと願う。
若いお心もいっぱい持っておられて、富士山にも何年か前に登られ、確か、グライダーに乗りたいと言って居られた。遊び心が必要。
「森さんねぇ、イイカゲンな牧師になりなさい」と幾度も言って下さったのはこの方だ。
以上でひとまず補筆はおしまい。
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「稚内映画を観る会」による『ペコロスの母に会いに行く』という映画を文化センターで観ました。
ペコロスは、ごく小さなタマネギのことで、主人公の男性の頭髪に重なります。
泣けて笑えて、翌日になってもほんわりとし、考えさせられる映画でした。さすがキネマ旬報ベスト・テンで日本映画1位。長崎が舞台の映画は九州育ちの私にとって懐かしさもありました。
千円も有難かったです。空席がたくさんあったのはもったいない。他の映画祭の企画が近かったのは惜しいところです。
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チラシにこうあります。
「認知症の母みつえとバツイチ・ハゲちゃびんの僕」「愛おしくて、ホロリ切ない僕らの毎日」
片隅の小さな吹き出しにはこんな文字。
「ボケるとも悪か事ばかりじゃなかかもしれん」
森﨑東(あずま)監督・85才が向き合っているのは認知症や介護の問題です。自分自身の行く末も考えました。
長崎県が舞台でしたが、九州で育ったわたしにとっては、何か少しその空気にも触れられて心和みました。
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『ペコロスの母に・・・』を観て思い出したことがあります。井上ひさしさんというカトリックの劇作家の言葉です。井上さんがこまつ座という劇団を主宰し、作・演出をなさっていた頃、お芝居が楽しみで追いかけました。20代半ば頃のことです。井上ひさしさんの舞台も、悲しいのにおかしいものでした。
井上さんが生前繰り返し語られた言葉として知られている言葉があります。
「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく、おもしろいことをまじめに、まじめなことをゆかいに、そしてゆかいなことはあくまでゆかいに」
森﨑監督はこれ熟知し実践されていたのです。
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私は『ペコロスの母に・・・』を観てから、ふと「礼拝説教」をすることと結びつけても考えてしまいました。
私は今もって説教の準備をするたびに毎週悩みます。
ただ、このお便りを書き始めた日の毎日新聞の連載漫画『アサッテ君』の40周年のお祝い記事に救われました。
個人的には漫画それ自体よりも、エッセーが大好きな漫画家の東海林さだおさん。こう語っています。
「プロ野球のバッターが10回打席に入り3本ヒットを打ったら大打者。だから僕も3回打てばいいんじゃないかと逃げを持っておく・・・」
そうか。説教にもそういう逃げ道があっても良いじゃないかと思ったのです。ま、人に誉められたいとか、ヒットを打ちたい、ホームラン等とは思ってはいないにしてもです。
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もう一つ、『ペコロス・・・』に関連して思い出したことがあります。
神学校で説教学の講義でお世話になった関田寛雄という先生が居られます。関田先生、とても硬派な一面をお持ちの方ですが、一方で渥美清さん演じた「寅さん」をこよなく愛す牧師としても知られています。
かつて仕えた高田教会の特別伝道集会でこう語られたのを記憶しています。
「寅さんの封切りは土曜日です。しかし牧師にとって土曜日は説教の準備をする日。しかし私はお弁当をもって映画館に行ってしまうのです。一度観て、二度目も観る。そして「こりゃ戴きだ!」という言葉をメモをする。それから夜、説教の準備をするとこれが捗(はかど)るのです。礼拝で皆さんに映画を紹介しながら語ると、大喜びするのであります」。
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渥美清さんが寅さんを演じる前に『喜劇・女は度胸』という1969年の映画に出演していたのを教えてくれたのは関田先生でした。
あっ、渥美さんは召されていく前にカトリックの洗礼を受けていますね。
その映画を撮影していたのが何と『ペコロスの母・・・』の森﨑監督だとチラシにあって合点がいきました。
そして、映画『喜劇・女は度胸』の原案を書いたのが、若き日の山田洋次監督なのです。山田洋次監督と関田先生。信徒の友の企画で対談もしています。
ユーモアは福音に仕えつつ生きる者にとっても大切なものなのだと、改めて心に刻みました。
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6月8日、東京から西川重則先生をお招きしての礼拝を捧げ、午後はピースウオーク稚内の講演をお願いしました。
翌9日(月)の朝、私はピースウオークの事務局の方と二人で、西川さんからの憲法の講義のような機会を得ました。
その時、私は目が開かれたのです。憲法20条の「信教の自由」についての自分の認識が甘すぎたと気付きました。
「クリスマスと結婚式は教会、お葬式は仏教、御祓(おはら)いは神社という国に生きる私たちクリスチャン(他の宗教・信仰の方も同じはずですが)は、相当に強い気持ちを持たなければ」と。
日本人の宗教観というのは、世界的に考えるとかなりイレギュラーなもの。特に、信仰のことを深く考えないまま一生を終える方だって少なくないのです。
だからこそ、わたしたちは、宗教とか信仰とかという言葉を越えて、その人の人格そのものに等しい意味があることをしっかりと自覚しなければならないのです。
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「集団的自衛権」問題の先には、靖国神社に祀(まつ)られるという事態が予想される時代です。きょう、正に集団的自衛権の閣議決定がなされようとしています。
政教分離の危機を深く憂います。いえいえ、暗雲をわたしたちの暮らしの中に呼び込んでしまうこの在り方に対峙しながらしっかりと歩む必要があります。
西川先生の純朴かつ肝の据わった信仰の姿勢に触れて、恥ずかしながらやっと分かりました。私、大いに反省して歩み始めます。