雑魚と書いて「ざこ」と読む。
わたしの亡き姉の中学校の同級生には間違いなく、「雑魚くん」という方が居たはず。
姉は大分県大分市内のある中学時代、本当に楽しげに過ごしていて、家に帰ってくると、「雑魚くんが・・・」と毎日のように話していた。
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「雑魚」の意味は、うんちくが相当に深いと言われる、『新明解国語辞典』のPC版によるとこんな説明がある。
(A)(いろいろの)小ざかな。
(B)(名の知れ渡った)大物に対して、取るに足りない小物。
ちなみに、わたしの好きな明鏡国語辞典 第二版では、
①いろいろな種類の小ざかな。また、小さい魚。じゃこ。
②とるに足らないもの。小物。
とある。
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見出しを書いてから、少し申し訳ないかな、等と思うのだが、日曜日の夜、道北地区の牧師たち、男5人が狭い部屋に「雑魚寝」した。
場所は名寄の小さな森の中にある道北クリスチャンセンターの居間。
年配の女性の先生は、お隣で独りお休み。もう一人の先生は敷地内のご自宅で休まれた。他に二人の男性牧師は所用で欠席。
道北地区の交換講壇のあと、敷き布団にシーツを掛け、布団一枚で雑魚寝。カーペットから外れた所にひとり。わたしは流しまで数十センチの所に布団を敷いた。
枕だけは、いつも車に放り込んである古くなったmy枕を使うが。
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午前0時前、ある先輩牧師が、「わたし、二階で寝るかな」と言ったのに明確にストップをかけたのは、一番若手の、チャーリーこと、興部教会の伊藤大道牧師だった。
「共同生活のいいところじゃないですか」みたいなことを彼は口にして、5人は雑魚寝する覚悟を決めたのだが、何だかとてもいいことだなぁと思うのだ。
あれやこれやと近況を語り合い、時に脇道にそれる話をする。バーベキューの時に炊きすぎたお米をオニギリにしてほおばる者も居たり、気ままな時間。
だが、このくだけた親密さ加減は得がたいものだ、とつくづく思う。
そして雑魚寝。
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翌朝。
チャーリーは例のごとく、せっせと炊事場に立って食事の準備を始める。
昨晩、買い込みすぎた焼き肉ともやしが炒め物となり、二皿が小さなテーブルに置かれる。
何も入っていない、にぎりめしがお皿に盛られている。昨晩のうちに握っていたらしい。
感謝の祈りに心を合わせて、「いただきます」をする。
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9時からは、各教会を訪問しての報告他の分かち合いがなされ、メインは、カナダ合同教会で一年間の研修を積んできた、道北センター主事で牧師の、藤吉求理子(くりこ)さんによる、パワーポイントを駆使しての報告を聞く時間だった。
昨晩大いに食べ、少し飲み、笑って、語らった牧師たち。
それぞれの関心事を藤吉牧師に投げかけながら、互いの理解を深めて行く。
外に出て学んできたということは、道北の教会を外から客観的に見る目を養ってきた、ということで、藤吉牧師からは様々な気付きを持っていることがびんびん伝わって来る。そして同時に、なにがしかの力強さを身にまとっていることも分かる。
我らは、道北地区の教会形成について、一所懸命に考えながら報告を聞くのだった。
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実はこのこと。ありそうでないことではないか、と思う。
わたし、幸せな事だなぁ、とつくづく感じる。
藤吉牧師も別のことを切っ掛けにお話していたのだが、教会員が二人か三人で会堂が建つなんてことがあるのか、とカナダで道北地区のことを紹介しながら何度も質問されたという。
その教会とは、最近、礼拝出席者が10名を超えているという美馬牛福音伝道所のことだ。わたしが稚内にやって来る前に、会堂は立ち上がった。ほぼ、何にもないところから。
よその教会のことについてこれほど一緒に考え、悩み、力を合わせる地区の牧師たち(勿論、場面が違えば信徒の方々)って、日本の各地でも、在りそうでないと思う。
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昼食を外でみんなでとったあと、わたしは、秋の教会創立記念礼拝にお招きする藤吉牧師と相談の時をもって、名寄を後にした。
3時間弱の道、必ず眠くなる道なのだが、何かしら満たされた気分で稚内に向かっている自分に気付く。
雑魚寝する牧師たちが居るからだけではないだろうな、と思う。
土曜日の夜は、久しぶりにゆっくりと話を、ということで、ある人に旭川の鰻屋さんの名店に連れて行ってもらった。これがまた気の利いた鰻屋さんで、「ひつまぶし」の正しい?頂き方をしっかりとお教え下さった。
始めは山椒だけ。次はワサビで、最後は全部そうしなくてもいいからお茶漬けで、と。
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六条教会の方たちとの距離も、ある程度大きな教会なのに、決して遠くなかった。
これもまた振り返って見れば大きな恵みだと思わずには居れない。
敬愛する西岡牧師の整えられた牧会の一端に触れる毎に教えられる事が多いが、それだけでなく、3年目の道北地区暮らしは、いつの間にか、じわーーっと深まってきているのだな、と気付いた。
幾人もの方々と、既に、北海教区の年頭修養会でご一緒した方が居られた。いやいや準備の段階で共に悩んだ方々も。
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東京一極集中、あるいは、札幌一極集中。
そこにはまた、そこでこその苦悩があることを思う。
都会の教会なのに、小さなぬくもりのある下町の教会で育てられたわたしは、そのいずれも知っている、ということだ。本当によい経験をさせていただきながら歩んで来たのだなぁ、と思う。
信頼する同窓の牧師は、都心の小さな教会で語ってきたメッセージ集を出版した。「心が擦り切れそうになった人々に、一杯の水を差し出す教会(オアシス)でありたい」との帯を付けた本にして。都会でもガンバッテほしい。
わたしは、1つ所に何十年ということはない歩みだったが、何も卑下することもない。それだからこその言葉が与えられ、関係が続き、生かされているのだなぁと分かってきた。
雑魚は雑魚で胸を張ればよいのだ。
なくてはならないものはそう多くはない。そうボンヤリと思う今に感謝。end