2016年
5月
30日
月
5月22日(日)の早朝4時半頃召天されたN兄の葬儀に際し、助言を求めて相談した友人が居た。
S牧師。彼はたぶんわたしより10歳程若く、学んだ神学校も違う。牧会の経験もだいぶ少ない。関東在住の牧師だ。
しかし、彼に出会ってからというもの、折々に垣間見る、額に汗しながらひたむきに仕える、愚直な伝道牧会の姿勢に刺激を受け続けている。
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23(月)の朝、彼に電話したのは、この度の葬儀では〈前夜式〉ではなく〈前夜の祈り〉で行こうとわたし自身で決めたことが切っ掛けだった。
さまざまな経緯があったのだが、とにかく、N兄の〈前夜の祈り〉の「式次第」は日曜日の夜遅くに作って印刷した。
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手元にある日本基督教団の『新しい式文――試案と解説』が1990年に出版された頃から、「前夜の祈り」という言葉は目に触れるようになっていた。
さらに、最近、広く手にされるようになった最新の教団の式文にも「前夜の祈り」という言葉はある。
この度の葬儀では、単に呼び方が「前夜式」から「前夜の祈り」となるだけではなく、実際、中身においてもご家族と列席者が分かち合い、祈りを合わせる心を自然に共有し、告別式を迎えられるようにと願った。
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だいぶ前から、前夜式と告別式で、ほぼ同じ内容のもの(わたしの場合、「式辞」変えている)が2度繰り返されるようなことは避けたいなぁと思っていた。
しかしながら、そのまま真似ることが出来るような葬儀の現場に立ち会ったことがない。
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日曜日も遅くまで、手元にある葬儀関連の著書を数冊開いてみた。妻も書棚から、「こんな本もあったよ」と運んで来てくれた。
中でも『礼拝と音楽』の葬儀の特集号では、実践神学の世界ではかなり知られる関西のF先生の論考があって、赤線を引いたりもした。
しかし、そういうものですら、知りたいと思うことはさらーっと触れられている程度に過ぎない。
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こういう時に頼りにしたくなるのが信頼できる友だ。
月曜の朝、わたしは目が覚めると、S牧師の師匠にあたる方(牧師)が、比較的最近、ご自身の奥さまの葬儀で、〈前夜の祈り〉の時をもった、という記事を『信徒の友』の特集記事で読んだことを思い出した。
読んで以来、ずっと心の片隅にあったというべきかも知れない。
S牧師とあれこれ言葉を交わしていくうちに、「森先生、わたしの師匠も変わって行きましたから、状況に応じて臨機応変に考えればいいんですよ…」という言葉でわたしは安心。
心が定まった。
向き合って行くご遺族の生きている文脈も背景もさまざまに異なるのが牧会の現場。
友の言う通りだと思う。でも、自分だけでそうだと思うよりも何と心強いことか。
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結果はどうだったか。
ご遺族もわたしが準備するに至った思いに(たぶん)共感されたと思う。
実際、〈前夜の祈り〉では、なんとご遺族のご次男が、ほぼ普段着で出席された。
さらに、84歳で召天されたN兄の妹さんは既に80歳に近いと思うけれど、やはり、礼服ではなく落ち着いた感じのお召しもの、それもpantsスタイルで参列された。
そして、それぞれに、故人の思い出を前方でマイクの前に立って話して下さったのだった。
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ちなみに、この度の〈前夜の祈り〉で、わたしは故人の略歴を紹介したものの、式辞は語らなかった。
そして、略歴をご紹介したのち、式次第のほぼ真ん中で、複数の方々に思い出を語って頂いた。そしてそのあと、教会の兄弟姉妹の有志にお祈り頂いた。
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プログラムには記していなかった賛美歌も歌った。
曲は「諸人こぞりて」。クリスマスの曲だ。
新潟県上越市の牧師時代に、天の栄光が顕れたと感じた方の葬儀でクリスマスの賛美歌を歌って以来のこと。
「主は来ませり、主は来ませり」と賛美し続けていると、ふと気づかされたことがあった。
そうか、主はクリスマスだけでなく、N兄を天国連れて行って下さるために、お出でになったのだ、と。
みなさんと心を合わせてお送り出来たこと、心から感謝。end
2016年
5月
10日
火
『 2016年5月8日号 増補版 旭東教会 牧師室便り 』
2016年5月8日 № 12
牧師 森 言一郎
※ダラダラと長いです。覚悟のある方がどうぞ。
いつの間にやら音信不通の関係になってしまうことがある。
その背後にはさまざまな事情があるもの。
4月の下旬、不義理をすることの多かったO(オー)さんという人生の大恩人とも言うべき方からお便りがあった。
O(オー)さん。多分、お歳は70代前半位の男性だ。
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わたしは17歳の時、東京で姉・○子と二人暮らしをするようになった。
1977年・昭和52年のことだ。
これまたさまざま事情があるのだけど、O(オー)さんは使わなくなっていた旧宅を無料で提供して下さり、わたしたち姉弟のみならず、森家をお支え下さった方だ。
O(オー)さんのお宅は、JR山手線の巣鴨駅に近いとこだった。東京のことは何も知らないで上京したのだが、考えて見たら普通では借りられないような一等地。駅まで歩いて7分。姉もわたしも学校まで近かった。
それでも二人暮らしの家には電話はなく、姉と二人、黄色のNTTの公衆電話から〈コレクトコール〉という先方=実家の両親払いの電話を、巣鴨駅前まで行き、夜8時か9時過ぎにしにいったものだった。
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父は若い頃、都内の私立高校で教鞭をとった時期がある。
その後、わたしの祖父が暮らしていた大分に職を求めて転居することになるのだが、その頃の教え子の一人がO(オー)さんだった。
Oさんは全国各地の花嫁の着付けと美容を専門とする先生方のために、先代と共に長年尽力されてきた方。
だから、岡山近郊にもお知り合いの先生方が多く居られたのだと思う。
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食べ盛りの高校生だったわたし。
道路を挟んでお向かいのO(オー)家に「今日は姉が居ないのでご飯食べさせて下さい」といつものようにお邪魔すると、「これは〈ままかり〉と言って、お隣からご飯を借りてこなければならない程おいしい…」と教えて下さったことを記憶している。
その時、「岡山の名産」というような言葉が発せられていたハズなのだが記憶にない。
しかし、人生初の〈ままかり〉体験をO(オー)家でしたのは確かだ。
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O(オー)さんからの大きな封筒に入れられていたのは二つ。
一つは〈森 言一郎様〉と宛名が書かれた小さな封筒に入った手紙だった。
「4月18日~19日迄仕事で岡山入りしたけれども、ホテルに缶詰状態で会うチャンスを失い残念」ということが最初に書かれてた。
その他、岡山の中心部の変化にも驚いて居られた。
そして、もう一つは『ジパング倶楽部 ~特集~ 岡山なつかし町さんぽ』という小冊子だった。
なんと全く同じ冊子を、岡山に暮らし始めて40年近いご婦人のもとに、お姉さまから送られてきた、という後日談もある。
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O(オー)さんこう記して下さった。
「言一郎君もすでに訪れた所もあるかも知れないけれど、もし何かの参考に成ればと思った次第。いそがしい毎日でしょうが、時には仕事の地区を知っておくのも良いのではと同封しました」と。
味わい深い青みがかった万年筆だ。
実はわたし、O(オー)さんには顔向けできない位の不義理をしっぱなしなのだった。
姉との住居のことのみならず、26歳の頃、仕事を失って路頭に迷っていた時にも助け手を差し伸べて下さった方なのに、30代半ば頃からほぼ20年近く音信不通のまま過ごしていた。
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旭東教会へ着任する少し前、悔い改めの心で手紙を記し、長年の失礼を心からお詫びしたのだ。牧師として最北の町で元気に暮らしていることをお伝えしたことで交流が復活したのでした。
O(オー)さんからのお便りを読み終えてから直ぐに美樹さんにわたしはこうつぶやいた。
「何だか、オヤジからの手紙みたいだよ」と。
ありがたい、と思った。
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昭和2年生まれの父。すでに召されてから19年経つ。
その父が、何かにつけハガキをくれたり、息子(わたし)の役に立ちそうな新聞記事を見つけると切り抜きを何枚もコピーして送って来てくれることがあったものだ。
この度のO(オー)さんのお心遣いは、じんわりと効いてくるあたたかさがあった。オヤジの眼差しを感じるのだ。
また、ゆるされていることを感じる瞬間でもあった。
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わたしも下手なりに心を込めて万年筆を手にして近況をお知らせすると共に、半年余りの歩みがわかるこの『牧師室便り』のバックナンバーをお送りした。
そして、最新号の《森牧師の部屋》のブログを印刷して同封した。
このようなことが出来たのも、山あり谷ありののちに、現在があるからだと思う。
感謝だ。
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話は変わるが、過日、市内の病院で甲状腺の細胞検査を受け、少し心配したことがあった。このブログの前号をお読みの方はご存知の通り。
教会総会後の臨時役員会のさいごに、「手術が必要というような時には、元気になることを最優先に、あれこれ考えず、直ぐに入院します。日曜日のこと等、みなさんで相談して下さい」とお願いする場面があった。
幸い、腫瘍ではなく治療も投薬もなしで半年後に来院をということで事なきを得た。
何にも増して有り難かったのは、もしやということを、率直に相談させて頂けたことだったと思う。
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と思っていたら、O(オー)さんから、ハガキが届いた。まるでオヤジのように。
【お便りの中、旭東教会の牧師室便りを拝読していて、北海道でのお便りと同様、しっかり心に定まった気持ちが伝わって参ります。きっと心に定まった人生観(感)があることが、このお便りを・・・・・・】とある。
さらに前述の甲状腺の細胞検査に触れて【お身体のことも心配もあるようですが、それこそ一病息災、留意しながら生きることが・・・・・・】と続く。
さいごは【かたよらない心、こだわらない心、とらわれない心、これがここ数年来の私の日々の生活の基本にしています。合掌】と書かれている。
まさに、お便りの空気は親父そのものだ。
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最近、大好きな珈琲を雑味なくおいしく煎(い)れるワザを、科学的考察?を経て身に着けたような気がする。
いやいや、以前から本を読んで知っていたが、その著者がまたあらたに本を出されて、じゃぁ一度試してみよう、と思った次第。
すごく簡単に伝授できるのでお声がけ下されば幸い。
ゴールデンウィーク、教会にお出でになったお二人に試してみたら、二人揃ってハッキリと「違います!」とお答え下さった。
なので、思い込みではないはずである。
どう変わるかというと、妻が言うには「スーッと飲める。お替わりしたくなる」というもの。雑味が消えます、かなり!
なぜ、珈琲専門店が堂々とこれを取り入れないか。
それはそれできっと理由があるとは思うのだけど。end
2016年
5月
03日
火
神奈川県在住の〈友人Sさん〉から近況をお知らせ下さるお便りと共に、横浜市内にある教会の『会報』が届いた。
ちなみに、この良き友は、一度も会ったことがない友。そして、牧師ではない。
ある教会の役員さんをされている素敵な方で、人生の少し?先輩の女性だ。
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Sさんがお便りと共に『会報』をお送り下さったきっかけ。
それは、78歳のT兄という方が○○教会で、2015年のクリスマスに洗礼を受けられた時に記された信仰告白文の中に、《旭東教会》の名前があったからだった。
○○教会は、Sさんの所属教会と親戚筋のような教会のはず。
〈旭東教会〉の名前を見つけて直ぐにお知らせ下さるとは、何と嬉しい心遣いだろう。
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その○○教会の『会報』にはこうある。
【私が小学校4年の時、父が国外へ単身赴任し留守家族は岡山に帰りましたが、その時は父の母教会である旭東教会の日曜学校に通い、私がキリスト教に接した最初だったと思います。
・・・・・・昭和20年6月29日岡山大空襲により被災し、母の実家である岡山県井原市にて少年期を過ごしました。家族は井原教会に行きましたが私は遠ざかっていたと思います】
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これは凄い!と感動。旭東教会で最初に福音に触れられて、おおよそ70年を経てご受洗とは。
直ぐに友人に電話を入れ、しばしおしゃべり。
そして、「○○教会の会報ありがとうございます。かくかくしかじかで、わたし、ぜひ、T兄に電話してみたいのですが」と伝えてみた。
すると、「先生、私とは所属教会は違いますけど、T家には、私から電話番号を教えてもらったと言えば大丈夫ですよ」とのこと。
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その後、思いたったら吉日で「デンワ イソゲ」のわたし。
直ぐにT兄宅に電話した。
あいにくT兄はお出かけだったので奥さまに用件を伝えると、翌日、連絡が取れ、こちらから折り返しの電話をいれた。
礼儀正しく紳士であることがわかるT兄。『会報』には笑顔のお写真と洗礼式の場面が見えたので、お顔が思い浮かんだ。
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ところがである。
受話器越しの穏やかで明るいお話を聞くにつれ、〈?〉が幾つか続いて出てきた。
通っていたという小学校の名前も西大寺付近にはない。まさか、自分の通っていた小学校の名前を間違えるわけがない。
ハッキリと覚えておられた、とある岡山市内の女学校の創設者のお名前も、旭東教会関係者ではないような気がした。
しかし、在りもしない話を、T兄がされているとは思えないし、デタラメを信仰告白文に記されるわけがない。
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ついに、これは「旭東教会」違いではという地名が出てきた。
「住んでおりましたのは、門田屋敷です」と言われるではないか。
さすがに門田屋敷は、岡山市の中心部にある地名であることを岡山暮らし二年生のわたしも知っている。
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それにしても、何かあるに違いないと確信。
丁重にお礼を申し上げて電話を切った。
岡山には、もう一つの旭東教会が存在したのか!と思ったりもした。
ひとつぼんやりと思っていたのは、「旭東」という地名は岡山市内にあること。
そして、むしろ、わたしたち日本基督教団旭東教会の方が、西大寺にあるのに、旭東という名前はめずらしい、とうことだった。
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さっそく、92歳にして、日々青年のようにお元気にお過ごしの旭東〈正長老〉に「これから伺ってもいいですか」と電話。
実は、正兄には、前日興奮気味に第一報を入れておいたのだが、電話を切ると『会報』のコピーをもって牧師館を飛び出した。
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「正さん、一体これはどういう事でしょう?」と教えを乞うと、直ぐに答えがわかった。
答えはやはり「旭東」違いだった。
門田屋敷に昭和23年まであったのは、現在の日本基督教団岡山教会の「旭東講義所・旭東日曜学校」だった。岡山教会は旭東教会の親教会だ。
正さんが教えて下さったが、岡山教会が昭和60年に発行している『百年史・上巻』の48-49㌻に、確かに「旭東講義所・旭東日曜学校」についての歴史が丁寧に記されている。
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小学生のT少年にとっては旭東日曜学校=教会だったことになる。
考えて見ればそれは当然のこと。
それにしても、嬉しいことだった。私の心の中には、つかの間の夢がだいぶ膨らんでいた。
でも、少しもさみしくない。
神さまは、本当に豊かな福音の種蒔きの実りを見せて下さった。
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こういうことがあるから、伝道は楽しいなと思う。
正長老も、旭東教会育ちながら、中学生の頃、旭東教会には同世代の友だちが居ないと言う理由から、岡山教会の活動に参加して居られ、旭東日曜学校のことはハッキリ覚えておられた。
そして、○○教会のT兄とも電話でお話して下さった。
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それにしても、Sさんよ、いつもありがとう!
それからさいごに、受洗されたTさん。
いつか、ぜひ本籍地があると言われる岡山にお出かけ下さいませ!end