2015年10月29日(木) № 206 『 イエスの採点は? 』

教会からそう遠くない西大寺の住宅街で秋の夕焼けをと思うと、この電線も写る。何となく人の世の複雑さを現しているように見えてならない。
教会からそう遠くない西大寺の住宅街で秋の夕焼けをと思うと、この電線も写る。何となく人の世の複雑さを現しているように見えてならない。

9月上旬に行われた日本キリスト教団の教師検定試験について、最新の『教団新報 第4829号』が報じていた。


今、私が受験するとどの科目もムツカシクて不合格になり、教会の皆さんをガッカリさせそうな問題も少なくない。


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東中国教区の同労者達が顔を合わせた場でも偶然教師検定試験の話題を話していた。


その時話の輪には加わらなかったけれど、仲間たちは新約神学の『パウロ書簡における創造論の理解』についての模範解答についての話が弾んでいた。


一体、パウロの創造論とはなんだ、と言う声も聞こえた。


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『教団新報』で目に止まり、私の中で違和感を感じたのは、事前に提出する試験の「説教」についての報告、そして、論評だった。


その記事に依ると、採点する委員会のメンバーになった先生方は次のようなことが押さえられている説教を求めたようだ。


「福音の力強さ」「聴く者の心を打つ」「会衆が見えて来る」「教会と会衆を愛する」「聖書の解説、説明に終始しない」ものだと言う。


だいたい教師検定試験が行われてしばらくすると『教団新報』誌上で教師検定試験に関する記事が載るのが通例だが、ここまではっきりと、どのような説教だと高得点が得られる、というようなことを記した報告は無かったような気がする。


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確かに、これらが備わるものも説教かも知れない。


けれどもどうなのだろう。このことをいつも意識しながら説教することが本当にベストなのか。


例えば、ある伝道者養成機関でもある大学で新約学や礼拝学、さらには、おそらく説教学までも講じたはずのT牧師の説教が何冊も本になっている。


私が学んだ神学校で旧約学を講じて下さったH先生は、その牧師の教会で信仰生活を送り、多くの感化を受けたと聞いた。そして、追悼の説教集を編集する立場で本を後書きか前書きを書かれていたと思う。


そのH先生がはっきりとこう意味のことを言われたのを記憶している。


「T先生の説教は説教準備の〈釈義〉になりますよ」


と。


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T先生の本はわたしの本棚に何冊もある。


久しく手にしていないけれど、神学生の頃、『ペトロの手紙』からの説教を母教会の正午礼拝で求められ、一体どうしたものかと悩んだときに、とある方にお願いして講解説教集を貸して頂いたことを思い出す。


もしも、T先生の説教が、教師検定試験の事前提出に完璧に写し取られて提出されたとしたら、果たして、高いポイントを獲得できるのか。


真面目に疑問に感じてしまうのだ。


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そもそも、やはり、教会で語られることを想定しての説教を採点すること自体に大変な無理を感じる。


やむを得ないことなのかも知れないけれど、教師検定委員会は、採点の基準となる一線について、説教という科目については、オブラートに包んでおくべきではないのだろうか。


出来れば見たくない、いやいや、公表などして頂かなくても良いのでは、と思う求めだった。


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11月22日(日)、旭東教会にお招きする関田寛雄先生が、概説的な書ではあるが『総説 実践神学』の中での論考で「説教原稿」についてこう記されている。


【説教にとって原稿は、なくてはならず、且つあってはならず、という関係にあると言ってよい。説教は本来「語りかけ」なのであって原稿を「読む」こととは本質的に異なるからである。


しかし原稿がなくてはならないのは、上述の作業を経て与えられた使信を適切な言葉に表現するためにはかなりの工夫と準備を経た文章化が必要だからである。しかしまた文章化すれば説教が出来上がるわけではない。それに基づきながらも自由且つ大胆(パレーシア)に「語りかけ」ることによって、そしてそれが聴衆に聞かれることによって説教は完結するのであるから、場合によっては原稿からさえ自由になって語らざるを得ぬ場合がある。


それ故説教原稿は説教の土台としてなくてはならないが、原稿に束縛されて「読む」ことに堕してはならない。理想を言えば説教の内容が充分説教者において血肉化していることである。特に説教経験の乏しい間は原稿化は必須の作業である。


原稿の作成方法はそれぞれが自らに合ったスタイルを生み出せばよい。原稿用紙型、ノート型、カード型などがあるし、全文記述型や要約型や要点型など、書き方も多様である。】



 
そして、「説教者の実存」という項でこのように語られる。


【そこで当然のことながら福音の言葉が語られるためには説教者の実存そのものが福音に与っていなければならない。………端的に言って説教者の、福音における自己統一性の確立こそが、説教の言葉の真実性と現実性の前提である。説教の言葉の「力」は決して修辞学や声量の問題ではない。ティーリケの語る如く、「説教者固有のひびきは、説教者みずからがその語ることの中に〈存在し〉、彼自身をそこで与え、彼の全身全霊をそこに打ち込んでいる時、たちまち聴衆の心にひびいてくるのです」(『教会の苦悩』29頁)】


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詳細はここでは論じないけれど、そもそも、紙の上の説教=原稿と、実際教会で会衆を前に語られる説教は別物なのだ。


どんなに原稿が整っていたとしても、それは本当の意味で説教になり得ているのか否かは、本当にそこに身を置いている場に於いてしか分からないはずなのだ。


講義的な聖書研究的な説教が必要な会衆であれば、そのような説教を牧会者である説教者は、淡々と、神さまからの評価のみを意識しながらなすだろう。


文字になったものは、説教とは言えず、読みものに過ぎない、と考える。


文字では常につながりが意識しながら次を読み進めるが、語りでは、全く突然に場面転換をすることが自由に、そして、大胆になし得るし、それが強く求められることもあるはずなのだ。


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もしも、もしもわたしが教師検定委員会のメンバーの端くれであれば、どなたにも「はなまる」をつけたい。


もちろん、わたしが教師検定委員会に選ばれることはないだろうが。


あっと、それでも、教師検定委員会のメンバーの皆さま。貴いご奉仕に心から感謝いたしております。ほんとうにおつかれさまです。end




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