岡山暮らしが始まって一ヶ月。
「転任しました」の挨拶状を送ってきてくれた友人にきょうは電話をした。
電話越しに「転任してよかったです。発作も治まってますし・・・」とMさん。
続いて関東であらたに頑張っているTさんに電話。
彼は「妻がパートに出始めました。月、水、金なんですが・・・」と語った。
「それじゃ、牧師の休日に奥さん孝行できんじゃないか」と伝えはしたものの、事情があってそうなっているのだから、こちらが余計なことも言えない。
**************
「デンワイソゲ、思いたったら吉日」ということがわたしの場合多い。
特に、仲間や先輩への電話は思いたったらあれこれ考えずにするに限る。
わたしは私で「美樹さんも元気になってきたよ。そして、旭東教会のホームページを見てね・・・」と伝える。
近況を伝えるには、今はそれが一番だ。
このBlogのアップロードが出来ず更新が滞っていても、教会の方のホームページはコツコツ動いてますので、どうぞ、そちらに寄って下さいませ。
**************
さて。
50年前の人たちと今の人たち。歳のとり方が変わった、と言うのは本当かも知れないなと思う。
少なくとも、半世紀前の日本人と今を比較すると、10歳は若く見えるのではなかろうか。
1960年、昭和で言えば35年生まれの私自身、今年55歳ではあるけれど、実のところ、半世紀前の世界にタイムスリップしたら、やっぱり45歳位の方たちと同じくらいの成熟度かも知れないなぁと思う。
父の世代やその前は定年は55歳。60ともなれば、明治生まれの祖父の時代は確実に風格あるおじいさんだったはずだ。
ある友人が、【先日私も、とうとう還暦を迎えました。こんなんで60歳でいいのだろうかと 自己嫌悪に陥りますが・・。】とメールに記してくれていた。
が、彼女の歳は、ほぼ私と一緒くらい、と思い込んでいたので、やはり、わたしたちが子どもの時代と較べれば、10歳は若く生きることが出来るようになったのだ、と感じる。
**************
妻は北海道に暮らしていた3月まで、家の中で過ごすことが多かったのにもかかわらずなのだが、実は彼女、シモヤケで困っていた。気ままフォトに、それゆえの真っ赤な靴下姿が映っている写真もある。
そのシモヤケが、治り始めているらしい。さすが岡山というのか。
わたしの方も、冬はひび割れするものと諦めていたかなり激しいかかとのひび割れが、久しぶりに眺めてみたら、やはりほぼ治っている。
やっぱり、岡山はあたたかいのだ。
**************
日曜日の夜、わが家で「ほぅーっ」と思う変化の知らせが妻からあった。
妻は「わたしーーぃっ、なーんかぁ、最近、センセイの説教よーくわかるっちゃんねぇー」(博多弁です、妻はわたしをセンセイと呼ぶ)とつぶやいたのだ。
この言葉にはあれこれ"裏"がある。
物理的に説教を聴けない状況にあった一年。
そしてまた、心のコンディションがあまりに悪くて、夫の、あるいは、牧師のメッセージの録音を聴くどころではなかったという事情もある。何より夫の説教のレベルが低かったか。
**************
そしてまた、彼女の恩師の説教がかっきり20分でおわっていた影響があるからか、元気な時でも、説教が一定の時間を過ぎると、何かがぷちんと音を立てて切れる、ということも時々も聞いていた。
ま、これはもっともなことで、誰であれ20分以上、一定の緊張感を保って人の話を聴き続けるのは、たぶん、無理だろう。
説教に限らずだが、聞いているようで聞いていないということは、元気な人でもいつでも起こっていることだと思う。
わが教会の熱心な信徒さんの幾人かの方が、礼拝に出席し背筋を伸ばして真剣に説教を聴いて居られたはずなのに、「礼拝メッセージBlog・西大寺の風」を一週間以内に聞き直している、というようなことが伝わって来たことも無関係ではないと思う。
**************
話は妻の「わたしーーぃっ、なーんかぁ、最近、センセイの説教よーくわかるっちゃんねぇー」に戻ろう。
これにはまた、別の角度からのメッセージがあるようにも感じる。
単純に言えば、説教が分かりやすくなったよ、と言うことである可能性も、ちょびっとはありそうだ。嬉しい。
そしてまたもう一つ。
妻のこころの状態が、ゴロゴロした石地や茨のトゲもなく、柔らかな状態になってきたということもあるのかも知れない。よかった良かった。福音である。
**************
「わたしー、まだ、リハビリ中やけん」
妻はそう言うことがある。
そうなのだと思いつつ、 冒頭に記した、Mさんの言葉「転任してよかったです。発作も治まってますし・・・」の前にこうあっことを思い出した。
「医者もこう言ってました。環境が変わればよくなる・・・」。
正にそのとおり。かつての僕もそうだった。
そのような助言をしてくれる、スーパーバイザーが、僕ら凡人にはどうしても必要なのだ、とあらためて思うのだ。end