もう何年も前のこと。
ためしてガッテンだったか、何の番組だったか。TVがわが家にあった時代に、それなりに忘れられない番組があったの思い出した。
お料理があんまり得意ではない奥さまが登場。一生懸命作った夕飯が食卓に並べられて、続いて食べ盛りの中学生くらいの息子さんが登場。
「いただきまーす」と言って食事を始めたと思う。
ところが、男の子はやがてこう口にした。「お母さん、ふりかけ なーい」。
少年は何の遠慮もなく、ご飯にふりかけをかけてパクパクと食事をし、「ごちそうさまー」と言って部屋に消えていく。お母さん、がっくり肩を落とすという映像だった。
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その後、とあるお料理の先生が登場。
もちろん、真面目に一生懸命にお夕飯の準備をしたお母さんの仕事ぶりをチェックしていたのだ。
詳細はすっかり忘れてしまったけれど、一番肝心なことを、スパッと助言されたというか、言い当てられた。
「何が夕食のメインなのかわからない。盛りつけ方も含めて、今日のわが家はこれよ!がありませんね」と先生は柔やかに笑顔で語られた。そして、指導が始まる。
そんな感じだったように思う。
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年末からお正月にかけて、わが家の食卓に並んだもの。そして、教会でみんなで頂いたものを振り返ってみて、ははーん、と見えてきたことがある。
それは、少し前から気が付いたことでもあるし、時々、妻と似たようなことで話をすることがあったことなのだが。
単純素朴がおいしい。
ごちゃごちゃしない。
あれもこれもは必要ない。
良質な素材を使って、必要な下準備はちゃんとする。道具だってもちろん大事。
そして、隠し味がひつようならば、あくまでも隠し味として使う備えをして(たとえば、利尻昆布の「こんぶ水」を準備するとか)それを取り入れてサッと作るお料理。
それがおいしいのではないか、と気づいたのだ。
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今年の正月。
おせちはわが家に並ばなかったけれど、ほとんど不満も、寂しさも感じなかった。
写真の、稚内産のぼたんえびの塩焼き。この日はさらに、麹漬けの牛ステーキが出てきた。
どちらもおいしかった。
たぶん、来年のお正月も、あれがいいな、と言ってしまいそうな程、旨かった。
「こんなの、ただ焼いただけなのに、褒められてもー」と妻は場合によって言うかも知れないが。
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先ほど食べたばかりの昼食。
二つのものがたまらなくおいしかった。
一つは、オニオンスープ。
三日前の残り物なのだが、オニオンをスライスしてある程度時間をかけてゆっくりゆっくり少し焦げ目も有るくらいの感じで炒めたそうだ。そして、そこに、「こんぶ水」をどーんと注入して、仕上げに、コンソメスープの素を入れて味を調えるとのこと。
お好みによってお醤油を数滴。それで熱々にしてカップで差しだす。
今日は残り物だったから、煮詰まっていたのは再び、「こんぶ水」で薄めたそうだ。
※【こんぶ水(すい)】
わたしも、利尻昆布バザーを始めてから知ったもの。地元の利尻昆布を、普通に四角いまま水に入れるのではなく、たとえば1㍑分の水に対して10㌘の昆布を使えばよい。その昆布をつま楊枝~もう少し長いくらいに着る。幅は1㎜~2㎜をメド。それを最低6時間、できれば夜作って朝という感じで準備する。冷蔵庫の保管で2週間大丈夫。そして、一度使い切っても、もう一度水を入れれば、確実に出汁は出ます。
これは、あらゆる料理に使えます。和風だけなんてことは決してない。洋風、中華も含めてぜひ。カレーライスの水代わりにもどうぞ。あるいは、ご飯を炊く時も驚くほどおいしくなる。
昆布のうま味成分が出るこの方法は、昆布の出汁は面からではなく、断面から出るという理論によるもの。ぜひ、お試しを。
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もう一つは、縮み小松菜と豚バラ肉(大きめの感じの切り方のもの)の炒め物。中華の素をパラパラッと、お塩も少々。
それとパンを頂いたが、ご飯でもいいだろう。
とにかく、偉くおいしいし、満足度が高い。
そしてこれが肝心なのだが、何を食べたかがハッキリ心にも、頭にも、お腹にも刻み込まれる余韻がある。
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ごちゃごちゃし過ぎて、手をかけ過ぎて、何だかわからなくなってしまう料理というものがあると思う。
どうも、手のかかったことは人知れずにしっかりやって、目に見えるところは、大胆に、どーんといく。これだよってわかるものを差しだす。
もちろん、先にも触れたように、元々の素材は厳選しておく必要はある。
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珈琲に凝り始めてわかったけれど、どんな名人でも、新鮮な焙煎をした良い豆を直前に挽いていなければ、ほぼ絶対に、美味い珈琲を飲ませることなんて無理なのだ。
質の悪い豆や焙煎から時間が経ったものからは、うまい珈琲は、逆立ちしても、達人でもドリップできないはず。
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一年の初めの、この森牧師の部屋のブログ。
お料理のことも分かち合いたかった部分は少しある。
でも、自分に言いきかせることも含めて、というか、そうしたいな、と思いながら記したいことがある。
有言実行というではありませんか(笑)。それは、礼拝メッセージのこと。
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何を聴いたんだかわからない説教。
何を伝えたかったのか曖昧なメッセージ。
やっぱり、くどくど、ごちゃごちゃしていては、説教はいかんだろうと思う。わが身を省みれば恥ずかしいが。
会堂を出るまでに、今日は一体、どんな話だったっけ、と思い出せないというか、腹にも心にも頭にも残らずに、ただ、週報の片隅に、忘れ去られていくようなメモが残るだけでは、いかんだろうなぁ。
そんなことを思う。
※妻が、これを書いている途中に、のぞき込んで「いいじゃない、忘れたって」と申してますが。
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定番と言われるようなお料理。数ヶ月に一回、あるいは、数週間に一度食卓に出てきても、「これ、やっぱり、おいしい!」「また、食べたいから作って」と感じるだろう。
聖書のメッセージを紡ぎ出すことは、全くおなじ作業とは決して言えないけれど、隠し味は隠し味に留めて、さまざまな下準備や黙想も人知れず磨きながら準備すること。
頂く時も、頂いた後も、何を食したかできれば思い出せるようになれば、語る者として、幸せだなぁと思う。
たとえ、ある程度の長さがあっても、噛んでおいしく、深く、心と頭と体に、しっかり残るメッセージを求めて行きたいものだ。
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み言葉というテキストのみならず、人との出会いや語る言葉、沈黙の言葉に聴き、示され、さらには大自然の中にあるコンテキストに対しても、心をしっかり向ける努力を、今年も少しずつ深めて行きたい。
でもでもでも、“ふりかけ”は、確かにおいしいし、外さないですけどね。
わたしも、大好きなふりかけをいつも置いてありますもの。
ところで、礼拝に「ふりかけ」があるとしたら、何だと思いますかって?
僕はあえて言えばですよ、賛美歌だなと今は思ってます。end