少し時間があったので、長いかな。でも、お時間あれば、お付き合いを。
◎はじめに
一年締めのお話。なんて気の利いたことは無理だけど、素直に嬉しかったこと三題を記して、今年のブログを閉幕しようかなぁと思う。
きょうは、北海道が世界にほこる、《コンビニ=セイコーマート(Seicomart)》を梯子した。セイコーマートのすごさは安売りがあり、周囲に一度チラシが新聞に挟まれる事だと思う。
その新聞チラシをみて、200組×5個パックで税込み228円の特別パッケージのティッシュペーパーを買ったのだ。
そのときわたしは、こんなことをレジの優しい笑顔の丸い体格の青年に言ってしまった。
「笑顔が素敵だねぇ」
「ありがとうございます」
「いや、ほんとだよ」
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なんて上機嫌でキザなわたしだろう。いや、オヤジが深まっただけか。
年末の解放感からだけではない。ことの背後には文脈がある。
なので、ちょこっと「笑顔が素敵だねぇ」というおいちゃんのひと言の文脈を自己分析してみよう。
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◎自己分析 その1
クリスマスが終わり、長引いたカゼから体調もほぼ回復。親しい同労の友に、ふと思いたって電話をした。
そんな風に電話が出来る時間がもてるのは、ほっと一息つけた時でないと無理なことが多い。
そりゃそうだ。
ばたばたと走り続けていては話にもならない。おいしい飲み物を飲むときだって歩いたり駈け足していては無理だろう。いかがですか皆さんは。
歩きながらの電話では、少なくとも、わたしの場合じっくりの実りある会話というか、実りある話は生まれない。
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【森先生。「忍」と「従」です】
そんな言葉が目に入った、丁寧なペン書きの、おっきくて、清楚なクリスマスカードが頂いた。
贈り主は後輩と言えば後輩であるけれど、今となれば同労者。日中そのカードをパッと見たとき、オレを励ましてくれているのかぁ。そうかぁ、そんな風に見えるんだなぁと思ったのだった。
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が、あらためてその日の夕食後に読み直すと、【こちらは、引き続き「忍」と「従」です】と記されている。
そうか、【森先生】は思い込みのひと言だったのか。てっきり、森先生も時々週報とか読ませてもらっていますが、だいぶご苦労が多いようで、という励ましかと思ったら違った。
「忍」と「従」。つまり、【忍従】。
国語辞典によるとこう説明する。
『新明解さん』によれば、「苦しい境遇に、じっとがまんすること」ある。例文では、「忍従を強いられる」。
『大辞林』によると、「耐え忍んで、言われるがままに従うこと。」とあり、『大辞林』の例文には、「召使い同様の扱いに忍従する」。
20分弱の話の中に、その忍従振りがポツリぽつりと聞こえてきた。
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彼は、わたしが神学校の同窓会から依頼を受け、同級生の追悼文を記したその文面に、ふとした拍子に触れてくれた。
「森先生、あれ、よかったです。感動しました。(いつもならどこかに紛れ込ませたり棄ててしまう同窓会報ですが、大事に)しまいましたもん。葬儀のときあー言うことが語れたら、ほんと・イイです」
その「あれ」とは、このブログの『選集 その4』に収めている、『 我 ステテコを愛す 』 (Blogより・2014年1月21 № 110)の要約版だった。
「あれ、よかったです」と言われるとやっぱり嬉しい。
だが、どんなふうにまとめ直したのかを忘れてしまったし、特別に仕舞っておくなんて言われると、読み直したくなってしまうじゃないか。で、牧師室のとある箱に紛れ込んでしまっていた「あれ」をさがして、昨日コピーした。
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実はその要約版。
わたしがひそかに尊敬する爽やかな大先輩からもわざわざ葉書を頂いて、敢えてご紹介するなら「〇〇氏への追悼文ひかっていました」と励まされていたものだったことを思い出した。
いやいや、『選集 その4』にUPしたとき、父親のような年齢の同級生からのメールの言葉も添えてしるしている。
【Nを偲ぶ貴兄のブログを拝見した。良かった。胸が熱くなった。ステテコをキーワードにして、忘れかけていた出来事までも含めて、Nばかりではなく、H君やS郎、T平のことまでが浮かんできた。・・・胸が熱くなり、涙しそうになった。森さんのブログは祈りだと思った。私もその祈りに心を合わせたい。】
ま、そんなわけで、ひと盛り上がりが、私的にありました。
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◎自己分析 その2
大好きな同労のご夫妻の教会が、会堂・牧師館の大きな工事のための全国募金を秋から始めている。
かれこれ既に依頼文が届いてから1ヶ月と少しの時が過ぎたのだが、実は、そのときに同封されていた文面に感動していたことをふと思い出した。
感動しましたよ! 信仰ってそういうものですよね。
そう伝えようと思いながら、ずっとそれが出来なかったのだが、冒頭に記したように、我が心に余裕がなければ、「感動しましたよ! 良かったっす」なんて言えない。
当然それは、自己分析その1、と今となっては関連していることに気づいたのだが、ひと言、どうしても伝えたくなり、市立病院の眼科定期検診の時間が近いのに、ダイアルした(死語ですな〈ダイアル〉は)。
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「あー、稚内のもりです」
「あー、森先生。クリスマスおめでとうございます」
「あの、〇〇先生。僕ねぇ、ひと言、感謝を伝えたくて。会堂・牧師館の募金の依頼に、先生のメッセージがあったでしょ。あの最後の所に、〇〇〇〇〇って書かれていた。あれ、僕ホントに感動してたんです」
「そうですか、そう言って頂けると嬉しいです。おかしなこと書いてしまったと後悔してましたから・・・・〇〇に変わりましょう」
「あー、〇〇さん、もりです」
「クリスマスカードありがとうございます。いやー、オレがあんなこと書いたら、献金こないんか、って昨晩話してたんで、喜ぶと思います。森さんの文、あっちこっちで読みましたよ・・・・。久しぶりなのに、会っていたような気がしましたもん」
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この電話の後、わたしは妻に頼んで市立病院に走ったのだった。
「あれ、送って置いて。そして、ひと言添えて。《お互い 誉めあって 元気出しましょう》って書いて」
そういうわけで、ふた盛り上がりがあったかなぁ、と、思うのだ。
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◎自己分析 その3
昨日の深夜。つまり日曜日の夜遅く、わたしは久しぶりに自分の説教をじっくりと聴きながら、ステップ運動をしていた。
あることを確認したかったからだ。
昨日、つまり、2014年12月28日の礼拝説教の箇所は、アドベントからクリスマスの流れの中、ルカによる福音書2章後半の「シメオンの賛歌=ヌンク・ディミティス」からのものだった。
丁寧に確認しておけばわかることだけど、実は、ほぼ1年前に、わたしはそのテキストからの説教をしていた。
最近はあまり厳密に説教原稿の保存をしたりしなくないし、新しい気持ちで学び直して語ることもたのしいと思っていた。そして、実は昨日の礼拝説教の準備の学びは(説教のできとかとは全く関係なく)いつになくというか、いつも以上に楽しかったのだった。
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それでも、1年前に、一体どんなふうに、どのような切り口で語っていたのだろうか、ということが少しだけ気になった。
で、落語を聴くでもなく、ラジオでもなく、1年前の、同じ箇所からの説教を聞き直すことにしたのだ。
30分程の時間だろう。ステップ運動をするのにちょうど良い長さを興味深く聴いた。
そして、すっごく大げさに言えば、自分を誉めてもいいかな、と思った。
特段、感動的な説教が聴けたのではない。
が、ひとつ二つ自分自身で納得ができたのだった。
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まず一点。
一年前の説教。あー、そんなことがあったなぁと思い出すようなことも含め、今ここでしか語れないことを語っていたこと。
二つは、一般に「釈義」というけれど、そのとき注目していた言葉と昨日の説教の注目点は違っていた。
うーんそうか、と思った。
いいじゃないか、とも思った。
たまには自分を誉めてあげようか、とも思った。
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〇おしまいに
さて、今回のブログの主題。
それは、やっぱ、人間、ほめられることが大事なんじゃないか、ということだ。
東京駅からそう遠くない東京湾方面とは反対側のお堀方面で、二十歳を迎えた、とても可愛らしいお嬢さんが勲章を授与された、というニュースがきょう流れた。
これまでの彼女の何が勲章に値するかのかよくわからなかったが、それにしても彼女が「これから、がんばんなきゃ」という気持ちになり、上向きな気分になったのことは想像に難くない。
彼女もほんの一センチくらい、背が高くなって大きくなったように感じる。
セルフイメージが高められること。
そこにはおそらく様々な循環があるはず。その循環は自らの少しばかりの努力とも関連があるし、そのような関係性をわたしも大事にしていきたい。
ことばとひとのあゆみにはブーメランのような作用があるのだから。
2014年もありがとうございました! 2015年もボツボツと記してまいります。おっと、もう一本、最北通信のUPがあるかもです。end