2014年9月8日(月)№157 『 ゆるゆる これがとても大切なのね 』

16歳からの2年間、姉と二人で暮らした巣鴨の町並み。いわゆる山の手の一角でもあるが、気取ったところのない、いい町だと思う。風呂屋は消えていた。当時155円で銭湯にもよく出掛けた。遠くに見える橋の所に、夕方になると焼き鳥屋さんがリヤカーで登場する。当時は1本50円だったか。
16歳からの2年間、姉と二人で暮らした巣鴨の町並み。いわゆる山の手の一角でもあるが、気取ったところのない、いい町だと思う。風呂屋は消えていた。当時155円で銭湯にもよく出掛けた。遠くに見える橋の所に、夕方になると焼き鳥屋さんがリヤカーで登場する。当時は1本50円だったか。

気がついてみると、しばらく北海道を離れていなかった。

 

飛行機に乗って札幌・稚内を往復することはあったけれど、30分以上飛行機に乗ることがないことに気がついた。妻は実家に戻ることがあるが、二人でとなると先立つものも必要になる。

 

さて、今年のわが夏休み。これは、近年稀にみる程の楽しい時間の連続となった。今号はその一部ご報告。後日、また他のことも記そうかなと思っている。

 

日曜日の感動の教会訪問記は、稚内教会のホームページのブログhttp://wakkanaich.jimdo.com/ に記して居るので、よろしければどうぞ。

 

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この夏、東京に行って来た。

 

稚内空港までマイカーで20分。無料駐車場に車を置けるのは有り難い。そしてお弁当を開いて搭乗案内を待ち、お茶を飲んでいるとちょうどよい時間となる。

 

妻と共に、2時間弱で羽田。妻はさらに福岡行きに乗り継いでしばしの別れとなった。帰りはまた同じパターンで、羽田で待ち合わせて稚内に戻ってきた。

 

いつも思うことだが、わずか2時間で東京。ほぼ同じ時間か+30分をかけて、一生懸命というか、ぶっ飛ばすように車を運転してようやく170キロ先の“名寄”に着く。

 

それが北海道の距離感だ。

 

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いろんな人と再会した。

 

長年のご無沙汰をわびたり、感謝を伝えることも出来た。

 

母教会では思いがけず正午礼拝の説教の機会を頂くだけでなく、たいせつな方たちとの昼食やお茶を楽しんだ。

 

正午礼拝は、小礼拝堂で行うものだと思い込んでいたわたし。オルガンを練習する音が、大礼拝堂から聞こえて来て、そうか、上で練習して下に降りて来るのだなぁ、と思い込んでいたら、違った。

 

「森先生、礼拝堂確認されましたか」という事務の方の言葉を聴いてびっくり。

 

日曜日には300人を越す会衆が集う大礼拝堂の講壇に、神学校を卒業する時に立って以来、久しぶりに立った。

 

昼の12時10分頃。

 

銀座教会の大礼拝堂の控え室に座った。ところが、礼拝の開始を告げるために鳴り始めるはずの、「銀座の鐘」が鳴らない。

 

案内して下さった先生によれば、「時々、鳴らないことがあるんですよねぇ」と言われたので、あらあら、残念と思っていたら、聞こえて来た。懐かしい銀座の鐘が。

 

オーバーに言えば、この鐘が鳴ったから、わたしは、教会に自らの思いで通うようになったのだった。感慨深い。

 

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12時15分に前奏が始まった。パイプオルガンの音色は変わらない。これまた懐かしい、〇〇さんが弾く奏楽だ。

 

12時45分には後奏が鳴り終わることが必須の忙しいお昼休みの人のためのものでもある正午礼拝。

 

ご案内下さった司会の先生が、確か、「12時40分に説教を終えると、ピッタリくらいだと思います」と教えて下さった。実際そうしてみると、その通り。数十秒のオーバーで無事にご用を終えた。

 

講壇からは、今、一人の信仰者として確信していることを語らせて頂いた。10グラムの利尻昆布もお目に掛けながら。

 

神学校時代にお世話になった先生ご夫妻も礼拝に姿を見せ、その後、語らいの時があった。語り口が、先生の奥さまの弟さん(牧師)に良く似ている、と教えて下さった。嬉しかった。ほめ言葉だったのかな。

 

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その他、16歳~17歳の高校時代を亡き姉と共に過ごした、おばあちゃんの原宿の呼び名で知られる巣鴨にも出掛けて来た。

 

父の教え子である、あるご家族の、まさに旧邸に姉と二人暮らしをしたあの頃は何とも贅沢な時だった。

 

部屋数10余の大邸宅に、光熱費を負担するだけで使わせて頂いたなんて、嘘みたいな本当の話の部類かも知れない。そう。NTTの電話すらない不思議な2年間だったのだが、楽しかった。

 

困ったことはなにもなかった。そういう時代だった。昭和50年代前半の頃の事だ。

 

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JR巣鴨駅から一歩外に出ると国道17号が変わらない姿を見せた。

 

しかし、テナントの変わった所も多く町並みには変化。

 

上にある写真は、姉と暮らした家があった町並みの一角にある質屋さん。ほんとに全く変わらない質屋さんのたたずまいには感動した。

 

ある意味すごいな、と思った。昔も今も変わらず、質屋通いをする方々が居られるのだろうと思う。質屋さん、おそらく、20年、30年経っても、変わらないのだろう。

 

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女性たちのために夢を届ける、とある分野の会社を経営されるご一家に、たいへんなご無沙汰をしていた。

 

それで少し落ち着いたところで、非礼をお詫びして、是非にと思って手土産を準備していたのだが、何と今は埼玉県の越谷にお住まいだと知った。

 

古いアドレス帳に残っていた電話番号にダイアルすると、「現在使われておりません」という案内の声。

 

ありゃ、なぜ、と思ったのだが、時は流れていろんながあったことを知った。

 

家庭教師をさせて頂いたご子息のMさんには東京を離れる直前に会社で再会出来た。近況を伺うことが出来たのは幸いだった。Mさん、今は成田方面から巣鴨に残る会社に通って居られる言うではないか。

 

全く予想していないことだったが、気がつくことがある。時が流れれば、物語が起こり、人も物も変わるのだ。

 

夕方なら、山手線を見下ろすちいさな高架橋の傍らに、リヤカーで焼き鳥を焼いているおじさんの所に出かけられたのになぁと、少しこころ残り。

 

軟骨やハツをドブンとつけるあの特製焼き鳥のたれの味は今も変わらないだろう。次回の楽しみとしよう。

 

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土曜日の夕刻近く。

 

新宿・末廣亭で落語を楽しむことにした。何年か前に妻と一緒にぶらぶら歩いた新宿も、当然、少し様子が違って感じた。

 

30年近く前は、しばしば出掛けていた新宿。しかし、駅前のアルタビル(タモリの番組の会場)を見上げたとき、はて、末廣亭までたどり着けるのかと不安になり、交番のおまわりさんに道を確かめてしまった。

 

超多忙なおまわりさんの手振り・身振りにしばし立ち尽くしてしまった。そして、稚内ですれ違う人の数の何万倍の人の横顔、背中を見つめながら歩いた。

 

おまわりさんからは、「伊勢丹を左にみながら越えて70メートル。横断歩道の向こう側に末広通という大きな看板が見えますから」と明確な道案内を頂き、無事到着。

 

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昼の部と夜の部の入れ替え無しで、3000円の木戸銭を払って入った末廣亭。たぶんこれまた姉と来て以来のことなので40年振り位か。

 

末廣亭は戦後間もなく建った東京の定席としては唯一木造の建物だという。

 

空席を見つけられず、「空いている席はありませんか」と、案内をしているお姉さんに尋ねると、「2階にベンチの席がありますよ」とやさしく教えてくれた。

 

Wikipedia・ウィキペディアによれば、【寄席の伝統を残した、趣のある造りである。客席は1階と2階合わせて計313席あり、1階中央に椅子席、上手下手の両方に桟敷席が設けられている。2階席はひな段である。楽屋は1階上手側】とあるが、そのひな壇に座った。

 

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入口で受け取った出演者が紹介されている八月の下席のメニューを開く。噺を聞きながらボンヤリながめていると、むむ、と嬉しくなることが書かれていることに気付いた。

 

最近落語協会の会長に就かれたばかりの柳亭市馬(りゅうてい いちば)さんが昼の部の主任として登場することを知ったのだ。ラッキー。

 

市馬さん。

 

わたしと同郷の大分県出身の方。豊後大野市に生まれたという52歳。勝手に身近な思いを抱いていたので嬉しかった。

 

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市馬さんが出てくる前は、奇術の「アサダ 二世」さん。

 

初めて見掛けた芸人さんだけど、おそらく、常連の方たちにはお馴染みの方なのだろう。

 

寄席にはこういう方の存在だどうしても必要だ、とあとからわかる。

 

たまにしか成功しないというような奇術を繰り返しながら、寄席全体の空気を緩ませる。お客さんにトランプを引かせて「あんたみたいに、世話の焼けるお客さんは初めてだよ」と笑わせる。きっと毎度の言葉なのだろう。

 

あとで登場する市馬さんも、「あんな怪しい芸人さんは他には居ない」と言って笑わせた。「だって、小道具を並べるだけで何もしないで下がっていったことがあるもの」と。

 

末廣亭という異空間に身を置いた者たちは、ふるーい磨りガラスの窓が開け放たれた、あの新宿の喧噪のど真ん中の生ぬるさと、ある種のノスタルジーを感じる空気の中、時が来るのを待った。

 

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やがて、「待ってましたぁ!」の声が響いた。

 

これまでとは全く違う程おおきな拍手が続く。

 

居住まいという言葉があるが、まさに、居ずまいがうつくしいのが、落語協会を背負って立つ市馬さんだった。

 

舞台照明の切り替えをしたとは思わないが、柳亭市馬さん。まさに、こうごうしい光をまとって登場したかのように眩しく感じた。舞台が急に明るく見えて華やいだのだ。

 

ライトアップしたのかしら。

 

他の落語家さんたちが着ていた羽織袴とは、全く値段が違うのかしら、と思うような着物からのオーラも湧き出ていた。

 

「一番上物のを幾つかもって来て下さいな」との声に誘われて、呉服屋さんが差し出す反物を、なんの躊躇もなく仕立てた着物ではなかろうか、とわたしは感じた。

 

掛け値無しに、そんな空気なのだった。

 

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噺はどうか。

 

スマートだった。いきである。余分なものがない。

 

そうかぁ、こうじゃなきゃいけないのね、と教えてもらったような、そんな落語だった。

 

その後、夜の部を楽しむのだが、前座の方たちの噺も実に良かった。彼らの初々しさが嬉しい。あるいはまた、太神楽というらしい、昔ながらの毬や筒を使う日本固有の曲芸も楽しい。話術が見事にその芸を引き立てる。

 

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どこを切っても、味がある。

 

それが末廣亭での経験だったのだが、末廣亭の中の片隅にあった売店で買った最中アイス200円の味が、これほどピッタリする空間はない、と知った夕べでもあった。

 

もう一つ、心残りは、そのすぐ近くで開拓伝道している同窓の中村牧師が牧会する教会(新宿コミュニティー伝道所)を訪ねられなかったことか。それもまたいずれの楽しみとしたい。end 

 

 

 

 

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