※どうってことのないお話です。それが長く続きます。お疲れの方、お忙しい方はいずれまたの日にどうぞ。
きのうの日曜日の礼拝。
子ども説教をしたときに、「柳沢君」という友人のことに触れた。
彼はこの夏、北海道縦断のオートバイのご夫妻での二人乗りによるツーリングを計画していた所、別の友人から、「げんが稚内で暮らして居る」と知って訪ねて来てくれたのだった。
柳沢君は親友というような付き合いではない。この10年程の間も互いに音信不通のままだった。
何も大喧嘩したわけでもないけれど、さりとて、どうしても連絡をして何かを相談しなきゃ、ということもない。そういう仲なのだ。
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ところがである。
今あらためて振り返って見ると、柳沢君って、人生の重要な場面にすっと姿をあらわして、たいせつな言葉をポロッと語ってくれて、重要な示唆を与えてくれる人だったのだとハッキリと気が付いた。
遅ればせながらであるが。
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柳沢君ご夫妻と稚内で一緒に過ごした数時間で、わたしが彼に話しかけた言葉にこんなものがある。
「柳沢、お前は遊びの名人だからなぁ」
正に、わたしからすると柳沢君とはそういう男なのだ。
「日本百名山」の登頂を楽しみ、今回のツーリングのように、HONDAのエアバッグ付きの大型バイクで日本の隅々の名所旅行を楽しむ日常を送っている(ようにみえる)。
大金持ちでということではない。
彼も立派なサラリーマン。ある大手電鉄グループの傘下にあるスーパーの中枢で仕事をし続けている、会社人間なのだ。
しかし、それなのに、会社に命をとられる、というような生き方は絶対にしない。
今回も「定年を迎えたら、もう、仕事はいいよ。片道1時間半、新宿、渋谷を通っての通勤は十分」と言い切った。
今回の旅も、会社の夏休みをめいっぱい使い切る10日間弱の日程のようだった。
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柳沢君は、一見すると、わたしとは生きる世界が違っているところに居るように見える。
わたしはと言えば、休みなのか休みじゃないのかわからないような時間の過ごし方しかできず、できれば、あと20年位、つまり70歳過ぎまでは牧師として働きたい、なんて考えている。
彼はわたしみたいな男とは全くタイプが違う人なのだ。
けれども、わたしはこう確信する。
彼には、堅苦しい人生哲学なんて言葉はなくても、聖書を読まなくても、しっかりとした人生観があるのだ、と。
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ところで、牧師をしていて、あるいは、人として生きていてというべきか。
年に何回かは必ず思い出すシーンが二つある。
場所を選びながらだけど、そのことを人前で話すことがある。近い所では昨日の稚内教会での礼拝のこども説教。そして、稚内北星学園大学での講義がそうだ。
そのシーンとは、わたしの54年の人生の中で、非常に重要な、ターニングポイントとなっている場面なのだ(と今確信する)。
そのいずれの場面にも柳沢君は居た。そして、何かを告げてくれた。
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若い時の方から振り返って見よう。
一つはインドのカルカッタに出かける切っ掛けをくれたのが柳沢君だった。
現在はカルカッタとは呼ばずコルコタと呼ぶようだけど、わたしは二十一の時に、大きなリュックサックに寝袋を縛り付けて三週ほどの旅に出た。
ある日、東京都府中市のとある町の、第二かつら荘102号の六畳一間のアパートに、柳沢君が飛び込んできた。
「げんちゃん、インドに行って来なよ、カルカッタ。とにかく面白いからさぁ。そして、安いんだ。あっ、ニューヨークも面白いよ。刺激に満ちている。でも、高いんだよなぁ」
そんなことを、部屋に入ってくるなり直ぐに始めたような気がする。
既にその時、柳沢君は、インドにもニューヨークにも出掛けて居た、ということなのだろうと思う。
二十歳の頃の感性というのは、今考えて見ると、わたしだって純粋で豊かだった。
いったい柳沢君はそういう経験をどうして出来たのか知らないけれど、とても大事な旅の切っ掛けをくれたのだった。
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私は彼の言葉を真に受けた。
そうか、十数万円の旅費と一日千円程の滞在費で、二週間でも、三週間でも海外旅行に出られるなんて。そんな所は他にないと信じたわたしは、それから、何ヶ月かしてインドに旅立った。
「HIS」と言えば、今はそれなりに何の知れた旅行会社だと思う。スカイマークやエアドウを生み出した、澤田さんという人が30年近く前に始めた会社だ。
そのHIS。
わたしが二十歳の頃は、格安航空券を扱うちいさなショボい会社で、新宿駅前の雑居ビルに入っていた。わたしはインドへのチケットをそこに求めに行ったものだ。インド往復が当時はタイ経由で13万円だった。タイからはエジプト航空が使われていた。
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カルカッタ、プーリー、ベナレス(バラナシ)、アグラ、デリーと、デカい国インドの、本当に限られた地域だけど、今考えれば得たいの知れない人々との出会いを繰り返しながら、わたしは歩き、列車に揺られ、バスに飛び乗り、恐る恐る闇市に足を踏み入れたりした。
インドの人々にとっての聖なる大河ガンジス川のほとりで、火葬がなされ、遺体が流れ来るすぐそばで、心からの感謝を込めて沐浴する人々の姿は衝撃だった。
どこの町でも堂々と道端に座り込んでチャイを売る幼い子どもたち、ムラサキ色に焼けたアグラの宮殿裏の空、自転車のインド人です、という顔のおじさんたちのデリーでの群れ、昼間からゴロゴロとして過ごすオッサン、サリーの美しさ等々。
それらに触れる切っ掛けをくれたのが、柳沢君だった。
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もう一つ、柳沢君が絡む、重要な場面がある。
それは、わたしが神学生としての最後の説教の日のことだ。母教会の銀座教会での夕礼拝の説教を担当させて頂いた時のことだ。
幾人かの友人たちが、「げんが、いよいよ神学校なる所を卒業して教会の仕事に就くらしい。礼拝と言うヤツに出て、そのあと、銀座の町に繰り出して夕飯を食おうじゃないか」という日。
早めに到着した岡田君は、その時の礼拝説教のみ言葉が『フィリピの信徒への手紙』からだ、ということを『週報』を見て気がついて、こう叫んだ。
「すっげぇなぁー!キリストって、“フィリピン”にも行ったのかよー」と。
地中海沿岸の古代都市「フィリピ」とアジアの国「フィリピン」。
確かに似ている。
聖書にほぼ初めて触れるような男たちが礼拝に来るのだから、そういう言葉が出ても不思議ではない。
そんな珍道中ならぬ、珍礼拝が始まろうとしていた。
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で、柳沢君である。
その日、たぶん、わたしは神妙な顔をしながら、銀座教会の2階にある、小礼拝堂の前方の椅子に座っていたはずだ。司会も自分がしたのかも知れない。
その時、わたしは確か三十二歳位。就職をして社会で働き、紆余曲折、病で苦しみ、多くの挫折をしながら学び直し、いよいよ伝道者としてスタートというところだった。
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そこには柳沢君も居た。
「もりちゃん、インドに行って来なよ」という、今振り返って見れば、最先端の遊び談義を交わしていた我らだ。
この時の彼のとった行動は何も不思議ではない。むしろ、実に全うだ。
柳沢君。
わたしの顔を見るなり、笑うのをこらえきれずというのか、前方に座っているわたしを指さしながら、笑いだした。それも、体を転がせるようにして、白い歯を見せながら、しばらくの間笑い転げていた。
わたしがまだひと言も語らぬうちに。説教を聴くのもおかしくて仕方なかったかも知れない。
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今わたしは思うのだ。
ほんとうに、指さされて笑われるような男がオレなんだよなぁと。
笑われてよかったと。
先週のブログで触れた中学校の時の、遠い、友人である小川君やその周囲の人たちも思うだろう。
サッカーばかりやっていて、勉強はいつも二の次三の次だったもりげん君が牧師なの!と。
恥ずかしいことを山ほど積み重ねて来た自分が居る。立派な、牧師らしい人ってもっと他に居そうだよ、と思う。心底思う。
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そうなると、聖書っていうヤツは、本当にリアリティーを持って迫ってくることに気がつく。
ペトロにしても、パウロにしても、彼らが存在しなければ、キリスト教も教会もなかったことは間違いない。
しかし、彼らほどひどい輩(やから)はいないではないか、と思うようなことが、バッチリと記録されているのが聖書。
神さま、そして、イエスさまは本当に不思議なことをなさるなぁ、と思うのだ。
この世の常識ではあり得ない道備えをされるお方だとツクヅク思う。
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柳沢君はもう一つ、わが人生において、大切な助け船を出してくれた男だった。
学生時代、今考えて見ても、本当に割のよいアルバイトを紹介してくれたのが彼だった。
それはヤバい仕事なんかではない。おとなの世界、職人の世界を知る、素晴らしい職場だった。
日本の中でも有数の皇居の脇にあるPホテルの鍋洗いのアルバイトだった。
30年前でも、朝7時半位から約12時間の拘束はあったけれど、三食付きで一万円以上の高収入のアルバイトが存在したのだった。そのアルバイトにありつけたおかげで、大型のバイクを購入したりしたし、インドにも出かけた。
それもまた、柳沢君のおかげだ。
その世界では鍋洗いの仕事を「鍋屋」と呼んでいた。お客さまが使ったお皿やフォーク、ナイフ、コップを洗うのはおばちゃんたち。
「鍋屋」は職人さんが使ったものだけをひたすら洗う。コックさんの最初の修行、みたいなものだ。
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神さまは、要所要所に、柳沢君を送り込んでくるらしい。
違う世界、違う価値観を持っているかに見える彼をだ。
今回も柳沢君はポツリとつぶやいた。
「お金はさ、食べるだけあればそれでいいよ」と。
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少し古いけれど、わたしは小椋佳が作詞作曲し、中村雅俊が歌った「俺たちの旅」が大好きだ。
柳沢君の顔を思うと歌いたくなる「俺たちの旅」。
その旅は、それぞれの世界で、もうしばらくは続きそうだ。end