稚内北星学園大学の「キリスト教概論」の時間。
第5回目となり、だいぶ、学生さんたちとの呼吸や間が良くなってきた。
前回、プリント配布して紹介していた「モーセの十戒」の学びを始めた。先週は、「殺してはならない」について少し踏み込んで考えた所で終わっていた。
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きょうはみんなで「十戒」を読み上げてみた。そして、おもむろに質問。
第九番目「隣人に関して偽証してはならない」との兼ね合いでの問いかけだ。
「はーい、顔を上げてぇ。みんなの中で、嘘をついたことのない人。手を挙げてくださーーい」
この日の出席者。あらためて出席簿を数えてみると23人。一限目だけど、眠気もない様子で、お目々パッチリ、しっかりとこちらを見ている。
もちろん、誰も手を挙げない。
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「じゃぁさぁ、皆に、自分がついた嘘を告白できる人。自分なりにもう既に整理できていることでいいよ。クラスのために、お互いのために、誰かいるかなぁ」と呼びかけた。
しばし沈黙。
やがて、一人目のZさんが手を挙げてくれた。
「じゃ、前に出てきて。お願い」と伝える。
Zさん、小学校の時の夏休みの算数の宿題で、引き算をどうしてもしたくなかったそうで、母親に嘘をついたことを黒板に図を描きながら告白。
ご自分の中で、どうしても忘れられないウソなのだろう。
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続いてVさん。
話し始めた内容は、意外にも、つい最近のこと。
某所で、かなりの人を巻き込んでついてしまった“うそ”が、更に家でも“うそ”を呼んでしまった模様。
毎回、授業のおわり一〇分になって記してもらう小さなプリントがある。きょうは「キリスト教概論の講義を聴いてよかったこと。参加してよかったことを記してください」と伝えた。
Vさん、最後に短くこう書いていた。
【今回、自分の犯したウソを皆の前で告白できて良かった】と。
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ほかにはこんな声も。
Wさんは、短くこう応答してくれた。
「・・・・しかし。他人とうそを分かち合うと言うのは、考えた事もありませんでした」と。
なるほど、めずらしいことだよなぁ。実は僕も考えてなかった。神さまのお導きなんだ。
キリスト教って、分かちあうことがすっごく大事なんだよなぁ、本当に。
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あるいは、Uさんはこう記していた。
「前回・・・・について書きましたが、・・・・嘘をついてごまかしました。誰にも言えないことが苦しかったです。聞いてくれる人がいただけで、気持ちは楽になるんですね」と。
わたし、Uさんのことが、とても気になっていた。なぜなら、前回の応答の最後にこう記して終わっていたのだ。
「今日の講義は聞いているのがつらかったです」と。
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他には、第七番目の戒め「姦淫してはならない」の罪を犯した者に対して、これから学び始めようとしている、イエスという人物は、一体どんな形で向き合ったのかを一緒に考えることにした。
その際、ヨハネによる福音書8章の、「姦淫の女」と呼ばれることの多い記事を紹介。新約聖書だけは教科書指定をしている。
「この女の人は、イエスとの出会いで、最終的に何を受けたのだろう。どんな気持ちになったのかな。どうだろう」と問うた。
しばらくして、一人の学生さんが小声で口にした。
「救われた」と。
「そうだね。救われたんだと思う。助かったとも言える。前回、イエス・キリストの名前について考えたよね。イエスは名前。キリストの意味は何だった?」
「救い主デス」
「そうだよね。《わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない》って、言えるのがイエス・キリストなんだよ」とわたし。
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講義の中で、キリスト者で哲学者として知られる、森有正の言葉を思いだし、その一端を紹介したくなった。
そういう展開になるとは、自分でも予想していなかったので、配布するプリントは準備出来ていなかった。頭の中に残っていた一部分を伝えることにした。
「親にも、友人にも言えないことが僕らにはある。心の一隅。隅っこって書くかな。そういうものを、何か抱えている。それが、僕たち人間というものじゃないかなぁ」と。
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森有正の本にはこうある。次週、講義のはじめに配ろう。
【人間というものは、どうしても人に知らせることができない心の一隅を持っております。醜い考えがありますし、また秘密の考えがあります。またひそかな欲望がありますし、恥がありますし、どうも他人に知らせることのできないある心の一隅というものがあり・・・・・
人間がだれはばからずしゃべることのできる、観念や思想や道徳や、そういうところで人間はだれも神様に会うことはできない。
人にも言えず親にも言えず、先生にも言えず、自分だけで悩んでいる、また恥じている、そこでしか人間は神様に会うことはできない】(「アブラハムの信仰」『土の器に』、日本キリスト教団出版局)
こう記してくれた方がいる。
「親や友人など、誰にも言えないという、心の一隅というものが私にだけではなく誰にでもあり、あって良いものなんだと思えたことが良かったです」と。
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そういえば、この日の最後の15分。
持参した絵本『 たいせつなきみ 』(作: マックス・ルケード、訳:ホーバード豊子、いのちのことば社)の読み聞かせにあてることにした。
ちょっと冒険と思った。
が、思いの外、学生さんたちの反応は好意的だった。さっそく、大学の図書館に置いていただく申請をした。図書館のHさんも喜んで下さってホッとする。
小さなペーパーへの声はこうも記されていた。
「最後に読んでいただいた絵本は小さい頃に見たことがありました。自分はよいところなんて、なにもなくて、ダメダメ人間です。でも、絵本のおかげで、もしかしたら、そんな自分でも大切に思ってくれている誰かがいるかもしれない、と思えました」
これは、「今日の講義は聞いているのがつらかったです」と上で紹介したNさんのことば。
Sさんは
「まさかこの年で、絵本の読み聞かせがあるとは思わなかったが、何だか小さい頃を思い出して懐かしく感じた」と教えてくれた。
ほんとね、まさかなんだよ。でも、それって楽しいよな。
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さいごは、わたしの宿題。
ある学生さんはズドーンと、こんな質問を記してくれた。
「先生にとってキリスト教ってどういう存在ですか? キリスト教がこの世になかったらどうなりますか?」
来週、応えようと思う。すごい質問ありがとう。
ほかにも、難問が届いた。ありがたいこと。end
【追伸】
『 たいせつなきみ 』は比較的最近、稚内教会のブログでも紹介している。
毎年稚内ひかり幼稚園の卒園前の子どもたちに読んでいる絵本で、2014.3.4(火) 『 《 卒園記念礼拝 》の《 パンチネロ 》・・・ 』で紹介してます。関心のある方はどうぞ(^^♪)