いろいろな巡り合わせというか事情があり、わたし、柄でもないのに先頃行なわれた「『考えてみましょう 戦争と憲法』 市民の集い」のパネリストの一人として話をする機会があった。
主催はピースウォーク稚内。わたしも共同代表(3人)を務めている。
1週前の日曜日、つまり、イースターの愛餐会が終了して間もない、4月20日の午後3時過ぎの事。場所は稚内北星学園大学の大教室だった。この教室、とっても良い環境で、話しやすく聴きやすい空間だったようだ。
この手の集会としてはかなりの参加者があり130名を超える人達が集まった。ちなみに、北海道新聞には約150名と報じられていたが、そこまでは行っていないのは確か。
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わたし以外の二人のパネリストは、とっても素晴らしい方たちで、お話の内容も心に深く残るものだった。
お一人は、樺太から困窮の中で引き上げたご自身の体験。そして、サハリン残留日本人の一時帰国に関わった事のある前・稚内市教育長さん66歳(男性)。
もう一人は、空襲を経験した事のある市内の74歳の主婦で、なんと11人のお子さんを育てられたという事を聴いただけでも、感動した。挨拶を交わしたときに、カトリックの信者ですと教えて下さった。
そんな心に残るお話の後に、戦争経験の無いわたしの乏しい想いを、わたしは語ることになったのだった。
わたしは最初、こういう事を口にした。
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15年前の事というと、皆さん、ずいぶん昔の事に思われますか?
二十歳の方の15年前と、わたしの世代とか、60代、70代の方たちにとっての15年前は、ほんの少し前の事ではありませんか。
わたしが生まれたのは昭和35年です。その15年前が終戦です。わたしを育ててくれた両親も祖父母も、あるいは、周囲の人たちも、15年前の事について、積極的に語る人は居ませんでした。
ある方がわたしにこう言われた事があります。「思い出したくなかったのだと思います」と。
父方の祖父が、戦中、(朝鮮半島の)京城少年院の務めに就いていたのですが、その頃の事を聴こうとすると、あまりよい顔をしなかった・・・・
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15分間という時間の中で、最初の数分、上のような事を枕詞にして語り始めたのだった。
ただ、両親を責める気持ちとか、どうして語ってくれなかったのか等とは、これっぽっちも思っていなかった。
そして、その後も、年配者が戦争体験を語って欲しい、という意味の事はひと言も触れなかった。
「十戒」の殺してはならないとか、イエスさまの山上の説教「地の塩・世の光」の話とか、戦中に日本基督教団が犯した過ちについて駆け足で語ったのだった。
締めくくりの言葉としては、人は真実な言葉を探して生きていると考えるが、平和憲法である第9条は、真理の言葉として、どのような立場の人とも共有し認め合う事が出来るものではないでしょうか、と話した(つもりだ)。
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明けて月曜日。
北海道新聞のS記者がまとめたわたしの発言は以下の内容だった。
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日本キリスト教団稚内教会牧師の森 言一郎さん(53)は「年配者が経験を語らないと、若い世代には戦争の姿が伝わらない。平和のために歩みたい」と表明。来場者から共感の拍手を受けていた。
※最後の「来場者・・・」の部分は、3名のパネリスト全体の発言に対してとも受け取れる。
新聞記者のSさんには、こう聞こえて、わたしがこう言いたかった、と受け止められただろうか。
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かたや、地元タブロイド紙の『稚内プレス』(増税後も月額500円を維持は立派。拍手)はこうまとめられた。
日本キリスト教団稚内教会牧師の森さんは「殺してはならない(せんそうしてはならない)」「平和を求める人達は幸いである」など聖書をひも解く中、「稚内を終着駅でなく始発駅として平和の尊さなどを発信していきたい」と語った。
と報じられた。これは、プレスの社長さんのKさんのもの。
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どちらがわたしの伝えようとした事に近いか。あるいは、正確なのか。
答えは簡単ではない。
どちらも正しい可能性はある。
そして、他の聴衆の心の中に、どう届いたのかもわからない。そして、記事だけを読まれた方たちは、いったい、何を知ることが出来たのか、少し不安を抱かざるを得ない。
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実はこれ。説教でもほぼ同じことが起こる。
いやいや、会議であろうが、ふとしたときの何気ない会話でも同じ事があるのだ。
そう。
わたしたち、ニュースを読むのと違って、自分のスタンスで何かを誠実に語ろうと、自分のことばを探して語ったとしても、その受け取られかたは、さまざまなというか、まったく異なる事が起こりうる、という事なのだ。
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誰が聴いても、聞き間違いが起こらないというか、一つの受け止め方しか考えられない言葉も世の中にあるのだろう。
しかし、それはそれで、何か恐ろしさをはらんでいるようにも感じる。
このたびの経験。
言葉を口にしたり、記したりする事を務めとするものとして、よい経験となったと受け止め、精進したいと思う。end