うまい珈琲を飲みたい。
というか、旨いコーヒーを煎れたいと思う。
ほぼ毎日、昼はミルクティーを頂き、夜まで珈琲は楽しみに我慢しておくことが多い。もちろん、どなたかが煎れる珈琲を頂くことはやぶさかではない。
が、たぶん、わたしにとって、珈琲の楽しみの半分以上は、自分で珈琲をdripすることなのである。
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とは言え、先に言い訳をしておかなければならないのだが、豆を挽くことを、我が家ではしていない。
正確に言うと、「もしや偏頭痛の原因のひとつがcoffeeかも知れない」と思い込んだ時期に、電動millを棄ててしまった(シマッタと今でも後悔)。
したがって、珈琲の本当のツウの方たちからすると「あらあら、そんな体たらくで、おいしい珈琲を飲もうなんていうのが、どだい無理な話」となるはず。
はい、そのことは承知いたしております。
珈琲の豊穣な香りが部屋に満ちるのは、豆を挽くその瞬間であることに異議無し。だから、程ほどの近いうちに、プジョーのcoffee millを買いたいとは思う。
が、さて、どうなるか。森家には“カメラレンズ闘争”も控えていることを自覚しているので、ハードル高しだ。
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数日前のこと、いつもお世話になっている稚内の市立図書館の新刊コーナーで、『コーヒーのおいしさの方程式』(NHK出版・1500円・田口護+旦部幸博著)が目に留まった。もちろん直ぐに借りて来た。
旦部氏はwebsite「百珈苑」で広く知られる方で、バイオ系の科学者。そして田口氏は、コーヒー業界の理論家で、『田口護の珈琲大全』などの著書で知られる人らしい。
同書では、少なくとも以下の条件をクリアしない限り、「よいcoffee」を口にすること等あり得ないと書かれている。
即ち、
①欠点のない良質の生豆の選択(悪い豆の除去)
②煎りたてのコーヒー
③挽きたてのコーヒー
④いれたてのコーヒー
そして、田口さんは言い換えてこう言われる。
「欠点豆のない良質な生豆。その豆に適正な焙煎を施す。煎り豆が新鮮なうちに正しく粉砕する(挽く)。そして正しく抽出」
それがなされたときに、はじめて、よいコーヒーを飲める可能性があると。
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『コーヒーのおいしさの方程式』の中には、こういうことも書かれている。
コーヒーの味は常に不安定。揺れ動いている。焙煎も一定ではない。粉砕、抽出も定まらない。・・・プロに求められるのは、常に、同じ味を提供するという味の再現性である。
そう。プロでも難しいということだが、それを安定して提供できるのがProfessionalのわざなのだろう。
そして、わたしは次の言葉に深くうなずく。
一杯飲んだら、さらにもう一杯飲みたくなるようなコーヒー ―― 私はそんなコーヒーを提供していきたい。
そうなんです田口さん。その瞬間を求めて、わたしcoffee煎れてますもの。
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我が家で煎れるコーヒー。
20回~30回に一度位だろうか。いろいろな偶然が重なってか、これは旨いな、と感じるコーヒーと出会う。
今回手にした『コーヒーのおいしさの方程式』に依れば、完璧な紅茶のいれ方は確立できても、コーヒーのそれはあり得ないと断言している。紅茶は実は誰もが簡単に入れられる、ということなのだ。
紅茶ファンは怒るかも知れないが、コーヒーのプロは「紅茶に比べてコーヒーには雑味のもとになる夾雑物(不純物)があまりに多く、高度な抽出技術が必要になる」とまで書かれている。
わたしもある時期、少し調べて見ていたのだが、コーヒーの専門誌には【抽出名人】と呼ばれる人たちのことが特集されていることが多かった。
素晴らしい生豆。
それを相応しい焙煎を施した上でない限り、どんな名人であろうとも、スーパーの袋詰めの豆を買ってきてcoffee potを手にして、真心を込めてお湯を注いでも、「さーすが、名人は違います」ね、という珈琲は飲めない。もちろん、それでも個人差は生じるに違いないが。
そのことを、明確に知れて本当によかったと思う。
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ふだん我が家では、妻がインターネットショッピングによって、少しでも上質の珈琲をお値打ち価格で買えないか、と探す。それが2~3週に一度の定例行事だ。
お安くなっているのは、珈琲缶か袋詰めにされて少しばかり時間が経ったものが多い。もちろん、何らかのラッキーも重なって、お値打ちの値段の新鮮な珈琲豆を手にすることもあるが、程ほどのものに違いはない。
『コーヒーのおいしさの方程式』を読んで悟れたことがある。
庶民が限られた予算の中で、超絶な珈琲に出会えることは、実は、らくだが針の穴を通るのに近いではないが、稀なことなのだ。
それゆえ、本物のProfessionalが、カウンター越しに、最高の豆を準備して、一杯1200円とか800円とかの珈琲を差し出してくれるのは、決してお高いものではなかった、ということだろう。
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昔、高田英治という牧師が居られた。
なぜ、いきなりここで高田牧師かと言うと、実はこの先生、コーヒーの世界では、ある時期(1980年前後かな)、そうとう名前の知れた方だったのだ。
桑名教会、名古屋教会、そして、福岡でも名門の福岡渡部通教会の牧師をなさった方で、『イエスに出会った人々』(教団アルパ新書)、『道標』(福岡渡部通教会による自費出版)等の本もある。
まさに知る人ぞ知る方で、ある年に、教会の牧師であることにアッサリか深く悩みつつなのか見切りを付けてしまう。
その後何年か経って、杉並区西荻窪に東京珈琲専門学院を設立。その学院長として、また、学院に併設されていたお店に立って珈琲の道に身を置いて居られた。
それだけでなく、新宿3丁目では教え子に「25時」と言うスナックを任せるオーナーとして歩まれていたそうだ。
何とも面白い生き方をなさる方が居られるものだ。
さらに、東京のJR目黒駅から徒歩20分程の所にある、日本庭園が美しいことで知られる有名結婚式場のキリスト教式の結婚式に長年仕え続けられた方だった。素晴らしいお式をなさっていた、との伝説がある。
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高田先生の奥さまも、色々な形でサポートなさっていたことを、私も聞いたことがあった。
そのお連れ合いが「珈琲美学」というお店を箱根方面、伊豆高原に構えられ(高田先生の没後か)、お店の中のホワイトボードにこう書かれている、証拠写真が今でもネット上にある。
以下はその抜粋。
●おいしいコーヒーを 淹れるためには 色々なことが重なり合って初めてできることです。(最重要なことは、良質の原材料ですが)
●例えば、ドリップの場合など、不完全な器具ですから、ことに、人の手による要素が かなり味を左右します
●・・・安直な電動ミルを使ってコーヒーメーカーなどで淹れたコーヒーは半分の味もでません!
●粉に挽いて半日もたったりしたのでは全くダメです。(出来上がったコーヒーは3分しかもたない)
●昔の生活は毎日、鰹節をけずる音で朝が来ました。翌日の分まではけずりません。「めんどうくさい!」と言う方は、コーヒーを淹れる資格がないのです。コーヒーがかわいそう・・・
まったくそのとおりだなと、と思う。
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もし、ドリップコーヒーをご自分で淹れている方が居られたら、一度、いつものペースで落としている珈琲。
最後の、40㏄位の珈琲、別の容器に入れて見て下さい。
どうかな?飲めます? すごい味しません?
『コーヒーのおいしさの方程式』では、さっさと切り上げて、濃いめの珈琲をお湯で割った方が、余程、科学的にもよいcoffeeを味わえると、記して居る。
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それにしても、高田英治先生が、なぜ普通に教会の牧師であることをお辞めになったのか。
その事情は、単純なものではないに違いないが、珈琲道に深く足を踏み込んで行かれたその理由は、珈琲の世界が持つその奥行きの深さにあるのではないだろうか。
そう考えるのは、あながち間違いではないと感じるのだ。
私のコーヒーとのあゆみも、これからじっくり楽しみながら続けたいな、と思う。
もし牧師を辞める日が来て、妻がゆるしてくれて体力があるならば、真面目に喫茶店のカウンター越しに、珈琲を煎れるおじさんになってみたい。そう思っている私なのだ。
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18歳のある日、わが故郷大分に暮らす岳雄くんの部屋を訪ねて行ったとき、コーヒーの良い匂いがしていた。
岳雄くんが、ドリップ珈琲を落とした後のカスを指さし、「おう、げん。もう一杯くらい出るやろ。お前も飲め」と言ったのは、見事な大ウソであったことを思い出しては、ふと、おかしくなるこの頃だ。
神さまはわたしに、奥の深いものをおしえて下さっているなぁ、と感謝している。ほんと、珈琲をあれこれ試しながら煎れることはささやかな庶民の楽しみなのだ。end