年末最後の土曜日・12月28日の昼前頃のこと。教会集会室で週報の準備をしていると本の電話が入った。
お目にかかったことのない方から、ご家族の葬儀の相談だった。
お父さまのSさん87歳が余命数日の状態になり、もしもその日を迎えた場合、キリスト教式の葬儀を執り行ってもらえるのだろうか。
東京から看病に来られていたクリスチャンの娘さんからの、不安を抱きつつの電話だった。
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都会の大教会であれば、信者さん以外の葬儀を引き受けていたら毎日お葬式になりかねないから、そう簡単に引き受けることはできないだろう。
しかし、人口3万6千人台となった稚内という町。教会は幾つもない。そんな中で、我々が断ってしまったとしたらどうなるか。
着任して間もなくだったと思うが、役員会の皆さんとの間で、このような場合お引き受けする気持ちで居るので了解していて欲しい旨を伝え、了解を得ていたことは幸いだった。
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相談に来られたのは、高校卒業迄は稚内に暮らし、以後、東京に出られ、今は墨田区にお住まいのM子さん。
わたしとほぼ同世代の方で、ご主人と共にクリスチャンだった。
告別式の時におじいちゃんの想い出を語ってくれたのは、M子さんの三女で末っ子のI子さん。確か中学一年生だった。
告別式の時、I子さんは家族を代表する形で想い出を語ってくれたのだが、来会された皆さんにこう話してくれた。
「おじいちゃんが、最期にイエスさまを信じてくれてよかったです」と。
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大正15年1月1日生まれのSさん。
なんと、お誕生日のその日の夕方、天国に帰って行かれた。満88歳になられたその日に召されたのだ。
稚内は漁業の町と呼ばれる。200海里の漁業規制以降、最盛期の10分の一に満たない漁獲量になったと言われる。
そんな稚内で、古くからの漁業者の方たちのみならず、地元の漁師さんたちが使っている機械、様々な漁網を巻き上げるための油圧式の機械の設計・製造・販売・修理までされるお仕事に長年従事されてきたのがSさんだった。
Sさんが開発された油圧装置は高く評価されていたそうで、宗谷近郊の漁業者のみならず、遠く、東北地方やサハリンにも出掛け、力になって居られたという。
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つまり、多くの漁業者たちに頼りにされていた方、それがSさんだったわけだ。
わたしは、そういう方との出会いを与えられて、本当に嬉しかった。
あー、稚内の町の牧師として働いているのだなと実感した。
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わたしは人に歴史ありと常々思っているのだが、Sさんが大正15年の1月1日生まれというのは、わたしにとって、非常に気になる年だった。
大正がおわり、続く昭和元年は12月25日に始まった。つまり7日間だけしか無かった。
そして次の年は昭和2年ということになる。実は、わたしの父が昭和2年4月1日生まれなのだ。つまり、Sさんは父のような年齢の方だ。
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ところが、そのわずか一年半の誕生日の違いが、Sさんとわたしの父とでは、人生を大きく変えていたことを知らされることとなった。
シベリア抑留のことをご存知だろうか。
わたしは、歴史の本で少し学んだことがあった程度でその実体については知らないに等しい。モンゴルだったか、直木賞作家の胡桃沢耕史が記した『黒パン俘虜記』をむかーし読んだ記憶があるのが限りなくちいさな接点か。
実はSさん。シベリアでの過酷な抑留生活を4年間経験された方だった。
Sさんには召集令状が届き、わたしの父には届かなかった。もちろん、Sさんは生きて帰って来られたからこそ、この度の葬儀を通じての出会いが与えられたのだ。
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Sさんは利尻島出身の方だった。シベリアに抑留されている自分の息子のことを知った、Sさんのお母さま。
貸してくださったお身内の記念誌によれば、茶断ち、餅断ちをして祈りながら、息子の帰還を待ち続けていたという記録が目に留まった。
双葉百合子さんの「岸壁の母」と重なる。
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Sさんにとって人生最期の食事は12月19日の稚内市立病院の夕食だったと聴いた。
居合わせたお嬢さんのM子さんが「お父さん、他におかずがあるのだから、ご飯ばかり食べないで・・・」と注意したそうだ。
すると、50歳の娘さんが初めて聞く父親の言葉が飛び出したのだった。
「父さんなぁ、シベリアに居た時、一度もお米があたらなかった・・・・。だからこうなるんだ」と。
もちろん、シベリア抑留は知っていたM子さんだが、時に見掛けることのある父親の偏った食事のとり方の理由を死の直前に知ったのだ。
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このような父と娘の掛け替えのない人生のひとこまを知り、わたしはふと、作家、劇作家、放送作家としても知られた井上ひさしさんの書かれた芝居を思い出した。井上さんはキリスト教とも深い関係がある方だ。
わたしは20代の頃、小劇場の舞台をよく観に出掛けていた。寺山修司の天井桟敷、野田秀樹の夢の遊民社(彼らは大きな所で演じるようになったが)、唐十郎の花園神社での情況劇場、更には、三宅裕司のSET(スーパーエキセントリックシアター)、の第三舞台、蜷川幸雄のベニサンピット等々、石橋蓮司の第七病棟、いやいや、他にも、細川俊之と木の実ナナのショーガールなどのミュージカルも楽しんでいたのだが・・・・。
で、そんな中に、井上さん演出の「こまつ座」のお芝居があった。浅草で観たと思う芝居で、忘れられない一場面がある。脳裏に焼き付いている。
戦中のこと。ある一家に鶏の卵が一個届いた。当時、卵はご馳走でだったという舞台設定だ。めったに口にすることのない卵を一家が手にし、舞台の上の人々ははしゃぎ、歌い踊る。
ところが、卵焼きか目玉焼きかと大騒ぎしているうちに、無情にもその卵はポトリと地面に落ちて食べられなるのだった。
戦争の悲しさ、虚しさを大笑いさせながら知る芝居だった。
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地域に仕える牧師として生きること。本当に光栄なことだと感じるこの頃だ。
この度の葬儀であらためてそう感じた。
とりわけ、稚内という、他の市町村とは明確な境界線がある地域にある教会の牧師として歩ませていただけることに喜びを覚える。
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Sさんの葬儀には、利尻昆布バザーでお世話になっている西浜の漁師さんの姿もあった。
他にも、いつも牧師館に回覧板を届けてくださるYさんご夫妻も居られたことを、妻から教えられた。
当然、キリスト教の葬儀では、聖書を読み、讃美歌を歌い、祈りを合わせる。式辞という形で説教もあるわけだ。つまり礼拝なのだ。
そう簡単には教会にお招き出来ない方たちと礼拝を守れたこと。感謝だなと思う。
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讃美歌を歌える方が少ないと思い、市内のホテルで結婚式の時にご一緒する、教会とは直接には関係の無い聖歌隊の方たち(つまり、彼女たちは音楽のプロフェッショナル)をお招きして、讃美歌を歌っていただいた。
彼女たちもキリスト教の葬儀に触れて、感動を覚えてようだった。
その中の一人は、先だっての教会のクリスマス礼拝後の愛餐会で、ソプラノ独唱をしてくれた方だった。
このような、出会いというのか、繋がりを生み出してくれる方が生きて働いていることを感じる。
全ては神さまのご計画。感謝しかない。end