昨日の日曜日。稚内教会では去年に続いての企画、〈 子ども祝福礼拝 〉の日だった。
子どもたち28人に対して保護者もおいでになる。母親だけ、そして、ご両親の場合もある。子どもたちへのメッセージも大切だけど、保護者、そして、幼稚園と保育園のスタッフの心に届くメッセージを、と願いつつ説教を準備した。いやいや教会の方にもは当然のこと。
説教題は『 いつでも帰っておいで 』だった。
前夜遅くまで準備した説教原稿。いつものように讃美歌にはさんで持っていた。けれど、一枚もめくらないまま語り終えてしまった。
牧師館での夕食時、「あーぁっ、せっかく原稿を準備したのに・・・」とつぶやくと、妻は「だけん言ったやろぅ、なんで無駄なことをするとぉーっ」と言う。
わたしはまた「いやいや、準備してなければ語れんって・・・・」と言葉を重ねる。
20数年前、神学校で説教学や聖書解釈のゼミを担当して下さったS先生は、確か、「説教原稿は無くてはならず、あってはならず」言われたような気もする。語られたその言葉の意味がよく分かるような気がする。
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説教はいつ出来上がるのか。
もしそう尋ねられれば、わたしの場合は、牧師室の机の上ではなく、当日の礼拝の、講壇に立ったそのとき、というのが本当だろう。
もうだいぶ前から、原稿を準備してもそのまま語ることが無くなった。でも、原稿、あるいはメモのようなものはないと不安。そして、それすら持たないと、何かいい加減な準備しかしていないような気分にもなる。
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きのうの説教の中で、ひとつのモチーフとなった言葉がある。
そのことを語ったわけではないのだが、説教題も聖書箇所も決まったあとだが、気付きをくれた。それは一本の映画だった。北海道の洞爺湖を舞台とした『しあわせのパン』という映画。その中の台詞だった。
ある方が、「いい映画なんです。両親が大好きで、ロケ地に何度も足を運んでいるんです・・・・・・映画の中のお店もあって・・」と言われ、「今ならDVDが家にあるから」と言うので、お借りして観たのだった。1週前のことだ。
原田知世さんと大泉洋さんが主演。手元にそのDVDと写真集が来てから、「あー、これかーっ」と思った。10月に行われた北海教区の牧師たちのための「教職講座」で、ソフトボールに参加しない人は、どうぞこの映画をと準備されていたのが『しあわせのパン』だったのだ。
わたしはと言えば、当然? ソフトボールに興じた。
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大泉洋さんが(らしくなく、しかしかなりの熱演で)クールに演じるパン職人兼宿屋の主人が、ひとりの何かしらの傷ついた過去を持つお客さまの女性を送りだす時、背筋を伸ばしてこう言った。
「また、来てください。いつでも、うちは、ここにありますから」
DVDを貸して下さった方には、「あの映画の主人公の夫婦は、どこかの教会の牧師夫妻にも感じた」と伝えた。当然、宿屋とパン屋を兼ねた所は教会ということになる。他にも、時々姿を見せた「月」は神さまのようでもあり・・・・等と。
さらに、映画の中で幾度も分かち合われた幾種類ものパンはとても象徴的なものに見えた。
台本も書いたという女性監督は、聖書の中のパンの意味など知らずに、原作の本から映画をつくり出されたのでは、と想像するが、パンはここでも普遍的な意味があると思わずにはおれない。
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「また、来てください。いつでも、うちは、ここにありますから」
つまりこれは、もしも、あなたが行き場所を失ってしまったとしても、大丈夫。ここに戻って来ていいのだよ、ということでもあるのだろう。
礼拝メッセージを準備していて、人には帰る場所がどうしても必要だという確信が与えられた。語った後には更にその思いが深くなる。映画のせいだろう。
礼拝では【創ってくれた人の所へ帰ってくる】ということは語った。でも、聖書やキリスト教にほとんど初めてふれる方たちにとっては、「????」だったのかも知れない。
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日曜の夜、土曜日の夜のうちに、「ホームページの【USTREAM】による礼拝配信を通じて明日は礼拝参加します」と伝えて来ていた関東の友人からメールが入っていた。
わたしが元々準備していた原稿にもない事柄で、礼拝の中でこう語るようにと導かれていった部分に敏感に気づいてくれたようで、おわりにこう記してくれていた。
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(説教で森牧師が)最後に話されていた、「みなさんが帰る家がありますように・・・・お祈りしています。」が心に響きました。
「ここが帰る場所ですよ!」という、言われ方はよく聞きますが、それよりも、広い心である、イエスさまが時を超えて、場所を超えて備えて下さっていることが感じられました。
そう。
教会に初めておいでになる、それも積極的に礼拝に参加しようと考えてお出でになったのではない方々に向けて、わたしは「教会、ここがあなたの帰ってくるべき場所なのです」と語らなくてもよいと思ったのだった。
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保護者の皆さんがお帰りになってからのお茶の時間に、月に一度行うとしている「マナの会」のような時間になったのには驚いた。
「マナの会」は、単なるお茶飲み話や世間話ではなく、今日の日曜日に教会に来てよかったこと、礼拝全体の中での恵み、行き帰りの恵み、讃美歌の喜び、そして、説教の気付きを傾聴し合う時間だ。批判や非難はご法度だ。
この日は、利尻昆布バザーの作業を優先していて、マナの会を休会としていたのだが、いつしか、「きょうの牧師先生の説教は・・・」というひとりのご婦人の言葉から、あれこれの分かち合いへと展開して行った。
いつもより、メッセージ性が強い説教、そして、みんなが良く知っているルカによる福音書15章の放蕩息子の話という偶然もあったかも知れない。お兄さん息子への同上の声も複数あがっていた。
夜遅く、ケロログから配信している説教Blogのアップロードの準備をしていて気づいたのだが、わたしの説教としてはだいぶ短めの19分と少し。この短さも影響したのかも知れない。
詰め込みすぎていない説教の方が余韻があるのかなぁ・・・・等々。
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礼拝で語らせて頂いた言葉。
それはわたしの口を離れた途端に、“み言葉”として一人歩きを始める。風が吹き、自由に、ゆたかに働いている。end