かつてわたしが仕えていた教会のE子さんというご婦人が91歳で召された。お知らせを下さったのは現任の牧師先生。その交わりに感謝だ。
日曜日をはさんで月曜日が前夜式、火曜日が告別式ということだったので、祈りつつ、時を過ごした。
弔電をお送りしたいと思った。何か記録が残っているかなぁとパソコンに検索を掛けてみた。Windows7では(以前からかも知れないが)、パソコン内部に関連するデータがあれば「E子さん」と打ち込んで検索を掛けると、そのありかを教えてくれる。
すると、E子さんが証しされた時の原稿らしきものが出てきた。詳細はすっかり忘れたが、何かの理由でわたしが清書でもしたのだろう。
一部分を引用してみたい。たぶんE子さんは大正11年位のお生まれで、戦争に関連する言葉も出てきて、その情景が思い浮かぶ。
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【私が洗礼をお受けしましたのは、○教会で、太平洋戦争が終わった年(1945年・昭和20年)のクリスマスでございました。
求道中は、家族と共に東京の恵比寿駅の近くに居りまして、毎日空襲という日々でした。でも、家族の中で教会に通っていたのは、私一人だけでした。その当時お世話になっていた渋谷教会の礼拝のさ中、窓ガラスに石を投げられたりして、これもまた恐ろしい時代でした。ですから、その頃、洗礼式はひとつもありませんでした。祈祷会は地下室で行なって居りました。
やがて、東京の家が運よく強制疎開の地域になりまして、○○という所へ疎開のために帰って来ることが出来ました。受洗の時は今と違って10人、また、それ以上の方々と同時でした。しかし、厳粛な気持ちは今と変わりありません。新しく生まれ変わった時でした。
それまでの私は、何となく父母を頼っていたようでした。でも洗礼を受けてからは、父母を頼っていたのが、神様にお頼りする気持ちに変わりました。】
戦中の体験を踏まえつつ、これまでとは違う希望が信仰によって与えられ、新生の経験が明確に言葉にされていて心を打つ。
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E子さんから、わたしは大きな励ましを頂いた思い出がある。それは説教に関しての言葉だった。E子さんはそのことをご記憶だったかどうか、もちろんもはや分からないが。
ある日曜日、わたしは準備した説教を講壇から語り始めた。
その時のわたしにとって、その聖書箇所はとても難しく感じているものだった。今でも同じ箇所からみ言葉を語る自信は無いかも知れない。
とにかく、語れば語るほど、自分の口から発せられる言葉が礼拝出席している皆さんの心はおろか、席に着地せず、“ふわり、ふわふわ”と舞い上がり、宙に浮いていくのを感じていた。
逃げて隠れたい。早く終わりたい。しかしどこにも逃げ場は無いし、語れば語るほど収拾がつかなくなり時間が長引いていく。追い込まれた気分だった。しかしそれでも何とか語らなければならない。
「男はつらいよ」ではないが、「牧師はつらいよ」である。
おそらく、今より若かった分、とにかく無い知恵を懸命に絞り様々な文献にもあたったと思う。そして、出来る限りのことをしたはずだ。でも、たぶん、確信を持つところに至らなかったのだろう。
何とも言えない敗北感というのか、虚しさを抱えたまま礼拝が終わった。
あーあ、全然ダメだ。そんなことを思いつつ、うなだれた気分でいたわたしはE子さんとすれ違った。いつもお座りになっている壁ぎわの、後ろから二番目の席だったはずだ。
驚くべき言葉がE子さんの口から聞こえてきた。
「先生。きょうの聖書は今まで分からなかったのですが、森先生の説教で初めて分かりました。ありがとうございました」と。
救われた、と思った。
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おそらくその日礼拝をご一緒した他の方たちにとって、わたしの語った説教は消化不良を起こさせるか、ちんぷんかんぷんだったのではと思う。
けれども、牧師にとっての喜びは、たくさんの人に納得してもらうようなことではない。ただ、ひとりの人の魂に、何かが届けばそれでいいものなのだ。少なくともわたしの場合はそう信じている。
E子さんのその言葉によって、わたしは今まで支えられ続けて来たことを思い起こす。
小さな背中が、少しまーるくなってからのE子さんとわたしは出会った。今はその背中に、天使の羽根がついて空を舞っているのか。
わたしが落ち込んだ時、どうぞ、その羽根をつけて、遠慮なく舞い降りてください。
E子さん、本当にありがとうございました。end