毎週日曜日は、少しオーバーに言えば何が起こるか分からない、何かが起こるかも知れない。そんな気持ちで迎えることがよくある。10時半少し前になると、講壇の席から、礼拝欠席の連絡を下さっている方の顔を思い浮かべながら、礼拝堂に着席されている方をぼんやりながめることが多い。
稚内教会の礼拝。いつ頃からの伝統なのだろうか、礼拝開始の定刻、10時30分よりもほんの数十秒だが早めに始まることがある。だらだらと遅れて始まる教会の方が多いような気がするから、これはこれで良いのかも知れない。遠方の牧師仲間は、早く始まるより遅れる方がいいんじゃない、と言っていたが。
今日の日曜日、わたしの心の中では思いがけないことが起こった朝だった。礼拝が始まって間もない頃に、2階の礼拝堂の入り口に何やら黒い人影が見えた。誰だろうなぁと思ったものの直ぐには分からなかった。男の人だ。受付もさっと済まされたので新来会者ではない。やがて讃美歌を歌い始めたその人の顔が見えた。
Mさんだった。4月から稚内にある勤め先への赴任が決まってこの町にお出でになった、20代のナイスガイだ(と本当に思う)。日曜日もほとんど休みを取ることが出来ないのでは、というようなハードな職場だとお聴きしていたが、夏前に姿を見せたのを最後に、ぱったりをお出でにならなくなっていたので気になっていた。
定期的に週報などもお送りしていたが、反応も無くなってしまっていたので、「これはもう、稚内教会には来ないことに決めた、ということかなぁ。でもそうだとしたら、何がいたらなかったのか、本当の所を聴いてみたい」というような気持ちになりかかっていた所だったのだ。
いやはや良かった。率直にうれしい。Mさんは、「とにかく忙しくて。2度ほど教会に来られそうな日もありましたが、疲れで寝てしまっていました」とのこと。
教会の皆さんがお帰りなってから、妻と三人であれこれと話をした。面白いことをお話しされていた。まだ20代半ばのMさん、体育会系の空気の中で生きてきた自分だからなのか、わずか数歳年下の同僚たちの感覚に戸惑いを覚えているというのだった。違和感とは言われなかったけれど、言葉遣いやら挨拶や、その違いについていけないそうだ。
この話を聴きながら、わたしが頭の中で思い浮かべたのは、秋から週に1度講義を担当させていただいている、市内の大学の学生さん達との向き合い方との関連だった。無い知恵を振り絞りながら、キリスト教の、ある意味で核心の部分を届けたいと思って努力しているのだが、中々これがむつかしい。何がどう受けとめられ、彼らの関心はどこにあるのか・・・。まだまだくみ取ることが出来ていない。
でも毎週本当に楽しい。赦しについての話をしたあとの感想には、「どんな罪でも赦されますか? 何度まで・・・」と記されていたり、新鮮な気持ちになる。
話は変わるが、この日奥さまとご一緒に礼拝に出席されていたOさん。礼拝後、みんなでコーヒーを飲む時間までお付き合いして下さった。今日の礼拝はどうだったか、というような話題になった時に口を開いて下さった。
奥さまが「お父さんには難しかったでしょ。顔を見ていてわかったよ」というお話しをされたあとに、「うん、わからなかった。言葉が難しいというのか・・・」と口にされた。
それって本当の言葉だろうと感じた。そしてそこに居られた方が言って下さったのだが「そういうことも言えるようになってよかったわぁ」というのも本当だと思った。
授業でも、礼拝説教でも、皆の心に届く何かをと願いつつも、十分に届けられない未熟さを思う。けれども、それでも感謝だなぁと感じるこの頃だ。自分には足りないけれど補ってくれる方が働いてくれることを信じたい。
こんど洗礼を受けられるAさんも、入門講座の終わりに「いかがですか、何か質問はありますか?」と尋ねると、「よくわかりませんでした」としばしば口にされていた。分かっていないのに、分かりましたと言われるよりも、これってすごく大事なことだろう。
でも、それでもいいのではと思えるのだった。それは、わたしの努力とは違う方向からの何かを既に受けとめて居られて、がっちりと自分のものにして居られるものがある、と明確に感じるからだろうと思う。
で、最初のMさんの話とどう結びつくか。わたしの中ではどこかで結びついているのですね、これが。説明は出来ないのだけど。感謝しています。